天皇を廃位にして新しい朝廷を作る

1221年6月、幕府軍は京都を占領します。と同時に、義時から宮中守護を命じられたのが、他ならぬ義村でした。占領軍の司令官みたいなものでしょうか。さらに息子の泰村が、京都の武力を仕切るポジションである御厩みまやの実務担当を受け持ちます。

松村邦洋『松村邦洋「鎌倉殿の13人」を語る』(プレジデント社)

仲恭ちゅうきょう天皇の廃位、後鳥羽・順徳・土御門3上皇の流刑が決まる。それと同時に、後鳥羽上皇の直系ではない後堀河天皇が即位してその父・守貞親王が院政を行う新体制ができあがったのですが、こういう戦後処理をグイグイ進めた中心人物が、他ならぬ義村だったんです。

「承久の乱後の朝廷と幕府、そして両者の関係は義村の手で再建、再構築されたと言っても、けっして過言ではない」って最大級の評価をする人もいるくらいです。

戦に勝ったとはいえ、次の天皇を誰にするかというところにまで手を突っ込んだ。同じ占領軍でも、GHQのマッカーサーだって天皇をかえることまではしていません。武士が朝廷にとってただのSPだった頃とは、本当に時代が変わったんですね。

明治維新まで残る法律を作る

この頃の義村の活躍ぶり・暗躍ぶりを、有名な歌人で政治家でもあった藤原定家は、日記『明月記』で書いています。「八難六奇の謀略、不可思議の者か」とそのアイデアマンぶりと謀略の巧みさを、古代の中国の前漢の名参謀・張良や陳平と同じくらいじゃないか、ってくらいまで持ち上げています。

義村はその後も新執権・泰時の下で評定衆を設けて合議制の体制を作り、承久の乱から11年たった1232年に泰時が定めた有名な貞永式目=御成敗式目――明治維新まで600年以上も武士の法律の基本だったんですね――にも宿老としてサインしています。

その7年後の1239年に推定72歳で死去。血みどろの時代をくぐり抜け、頂点にこそたどりつけなかったけど、すごく満足のいく人生を送ったんじゃないでしょうか。

(構成=西川修一)
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