自分が子どもの立場だったら
これがある程度できるようになったのは、40歳を過ぎたあたりだった。それまでは、他者の立場でものごとを考えるなんて到底できていなかった。いま現在も完璧とは言いがたいけれど、自分と他者の立場を入れ替えるという単純な作業をすれば、途端に見えてくるものがあることは理解するようになった。
きっかけは、子育てだった。子どもの成長により、体力勝負の育児ではなく、精神的な消耗戦をくり広げなければならない時期に差しかかり、常に考えるようになったのは、「自分が子どもの立場だったらどうか」という点だった。
子育ての精神的重圧はとてもタフだ。
答えが見つからない混沌とした世界で、必死に答えを探し出す時間の連続だ。多くの場合、母親(あるいは父親、養育者)にとって、たったひとりの内なる戦いになる。そもそも少なかった子育てに対する自信なんて、一切なくなってしまう。
子どもの頃の私にとって、親というのは完璧で誰よりも正しく、自信に満ち溢れた、絶対的なものだった。しかし自分が成長するにつれ、親も失敗をする「私と同じ普通の人だ」という、当然のことに気づく瞬間が訪れた。そこで初めて、自分のなかのロールモデルとしての親が消滅し、親から切り離された状態の自分が誕生したのだと思う。こうやって子どもは親を通して成長していくのかもしれない。
あの頃の両親も子育てで悩んでいたはず
そしていま、私はあの頃の両親を超える年齢の大人となり、ふたりの子どもを育てている。
子育てで悩み、なかなか眠れない夜、若かりし日の両親も毎夜、子育てで悩んでいたはずだと考える。その瞬間、心のなかに言いようのない安堵が広がっていく。誰よりも私を理解してくれ、頼りにできる援護者が現れたような気持ちになる。彼らもきっと私と同じように悩んでいたのだと思うだけで、孤独な道行きに光が差すように思えてくる。自分が経験した寂しい幼少期を思い出せば思い出すほど、両親の幼少期についても、思いを巡らせるようになった。そうすることで、ようやくすべてを納得できたのだ。あのふたりも、かつては子どもだったのだと。
こんな風に、心のなかで「相手の立場で考えてみる」という作業をくり返す。子育てをしながら親に思いを馳せるようになるとは想像もつかなかったけれど、いまの自分にとってはもっとも有意義な心のエクササイズであり、両親との数少ない思い出が、子育てというゴールの見えない旅路の羅針盤となっている。