石田家の軍勢を同行させて会津に向かうはずの吉継が病と称して美濃垂井から動かなかったため、不穏な風聞が既に広まっていた。三成が出陣つまり挙兵の準備をしており、吉継もこれに同心しているという内容だった。
そんな不穏な情勢を捨てて置けなくなった三奉行は、家康と輝元に対し、急ぎ上坂するよう求めた。当時、大老で大坂にいたのは秀家のみであった。
この書状が輝元のもとに届いたのは十五日と推定されているが、輝元は上坂を即断する。恵瓊からも連絡が入ったが、かねての計画どおりに軍事行動を起こしてほしいというものだったろう。
広島から大坂までわずか四日で到着
その日のうちに、輝元は兵を率いて海路大坂へと向かう。十九日には、家康がいた大坂城西丸に入城する。
輝元の到着に先立ち、秀元率いる毛利勢が大坂城に入っていた。十七日の段階で、毛利家の大坂屋敷にいた秀元が西丸の占領に成功したのである。上坂要請を受けて輝元が広島を出陣するのを合図に、大坂で軍事行動を起こす手筈になっていたことが窺える。
一方、西丸の留守居を務めていた家康の家臣・佐野綱正は何ら抵抗せず、毛利勢に西丸を明け渡してしまう。大坂城を預かる三奉行が三成の挙兵に呼応したことで、抗戦を諦めたのである。
この時、輝元は広島から大坂までわずか四日で到着している。江戸時代の事例だが、毛利家は江戸への参勤交代の際、大坂までは海路で向かっており、広島近海から大坂まで六~八日を要したという。
この数字を踏まえると、凄まじい急行軍だったことがわかる。家康討伐の総帥の座に一刻も早く就きたい輝元の逸る気持ちが滲み出ている。大坂から報せが入れば、猛スピードで到着できるよう万全の準備を整えていたのだ。そう考えなければ、とても理解できないスピードであった。
恵瓊を通じて三成と挙兵のタイミングを打ち合わせ、諸々の準備を整えていたからこそ迅速に出陣することができた。海路での急行軍も可能だった。自分の露払いのような形で、秀元を大坂城に入城させることもできた。
前年の襲撃事件の際に輝元が軍事支援も辞さない姿勢を示したこともあり、この家康打倒の挙兵にも賛同してくれると三成は踏んでいた。果たせるかな、輝元は挙兵に呼応し、総師の座に就くことを約束する。大軍を率いて、電光石火、大坂城に入った。挙兵は成功した。
しかし、毛利家にも不安材料があった。軍事面を預かる吉川広家の動向だ。その不安は後に的中することになる。
クーデターに呼応した三奉行
七月十二日、三奉行は輝元に上坂を要請する書状を送ったが、同日、増田長盛は会津へ向かう家康の側近・永井直勝に向けて次の書状を発した。三奉行のなかで家康の信頼が最も厚かった長盛は、上方の異変を急ぎ知らせていたのである。