昭和初期の日本の金融危機にも知見を持つ

バーナンキ氏は1953年にジョージア州で生まれ、サウスカロライナ州ディロンで育った。バーナンキ家はディロンでは数少ないユダヤ系の家庭で、先祖は東欧からの移民で、父は薬剤師や劇場の支配人を務め、母は学校教員だった。

地元の高校からハーバード大に進学し、経済学を学び、最優秀学位をもって1975年に卒業した。79年にはマサチューセッツ工科大学で経済学博士号を取得している。博士論文は「長期コミットメント、動的最適化とビジネスサイクル」だった。スタンフォード大学、ニューヨーク大などで教鞭をとり、プリンストン大で学部長を務め、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで金融理論、金融政策の講義を行っている。

バーナンキ氏は1930年代のウォール街に端を発した世界的な金融危機の研究で知られ、昭和初期の日本の金融危機にも知見を持つ。その研究の成果をFRB議長に就いた直後の2008年に実践することになるとは歴史の巡り合わせとしか言いようがない。

日本には「ケチャップを買ってでもマネーを供給しろ」

「金融危機を回避するには大量のマネーを市場に供給することが必要」という超緩和策を提唱し、実際、リーマンショックへの対応で、ゼロ金利政策を軸とする大幅な金融緩和と金融機関への公的資金の注入を断行し、危機を回避した。この大胆な金融緩和策から「ヘリコプター・ベン」と渾名あだなされたほどだった。

金融危機時には輪転機で紙幣を刷りまくり、空からばらけばよいというバーナンキ氏の主張は世界の金融政策の潮流を形成していった。当時の日本銀行に対しても「大規模な金融緩和に消極的であった日銀の白川方明総裁の政策に批判的だった」(市場関係者)とされる。

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その後、日本では自民党が民主党から政権を奪い返し、2013年、金融政策を担う日銀総裁に元財務官でアジア開発銀行総裁であった黒田氏が抜擢された。黒田氏は間髪を入れずバズーカ砲と呼ばれた異次元緩和に踏み込む。

この背景にはバーナンキ氏ほか、ポール・クルーグマン氏などの米国の著名マネタリストがおり、ミルトン・フリードマン氏を信奉する経済学者の理論が日本にも導入された。バーナンキ氏は日本の金融緩和について、「買うもの(国債)がなければケチャップを買ってでもマネーを供給しろ」とまで迫った。