名前として、花や宝石の単語を与えられていた

こうして、女奴隷たちは、さまざまな経路をとおしてハレムに入り、女官としての人生を始めることになる。彼女たちはまずイスラムに改宗し、ハレムに住まう女性として新しい名を与えられた。

生まれたときからの名前――ほとんどの場合、キリスト教の洗礼名だったはずである――を捨てることを余儀なくされた彼女たちは、どのような名で、ハレムでの生活を始めることになったのだろうか。

彼女たちに与えられた名には、花や宝石、あるいは美しさにかかわるペルシア語の単語が多かった。ギュルスタン(薔薇園)、デュッリー(真珠のような)、ナズペルヴェル(媚態のある)などである。チェスミスィヤフ(黒目)やメフタブ(月光)といった、身体的な特徴や自然にまつわる名称も、よく用いられた。

この命名は、彼女たちはあくまでスルタンの所有物であるという性格を、よく表しているといえよう。こうした名を、一般のムスリム女性は名乗らない。市井の人々がこれら特徴のある名を聞けば、彼女はハレムの奴隷だ、とすぐに悟ったに違いない。

新しく名前を与えられた女官は、みずからの名前を忘れぬよう、そしてほかの女官たちに名前を憶えてもらうため、紙に名前を書いて胸に縫い付けられた。ただし帝国最末期のハレムでは、新しい名前を与えられることなく、本名が使われていたようだ。

ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル作「トルコ風呂」(図版=C2RMF/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

人数は数百人規模…軍人並みの給金をもらう女性も

女官たちの給金は、その職階に応じて、日給5アクチェ(アクチェは銀貨の単位)から500アクチェとさまざまであった。18世紀末のイェニチェリ軍団の俸給が7から8アクチェであったから、少し経験を積んだ女官は、軍人並みの俸給を得ていたといえるだろう。

このほかにも、宗教祭や王族の結婚式など、慶事のさいには特別の下賜が行われた。衣服や生地は、日常的に支給された。ハレムの女官としてふさわしい身なりをすることが求められたのである。

ハレムで働く女官たちの総数を、正確に見積もることは難しい。外国人はしばしばハレムの規模についての記録を残しているが、おしなべて大袈裟だからである。

たとえば、17世紀初頭にトプカプ宮殿を訪問したヴェネツィア使節オッタヴィアーノ・ボンは、女官の数を1000から1200人としている。しかし、俸給台帳の記録からみて、この数字は明らかに誇大である。

トプカプ宮殿に残された史料によると、1575年には、旧宮殿に73名、トプカプ宮殿に49名、合計122名が確認できるにすぎない。この数は、時代を下るにつれて増加した。1652年の記録では、旧宮殿に531名、トプカプ宮殿に436名、合計で967名であった。