「学校の先生と塾の先生が、子どものために膝をつき合わせて話をするなんて、考えられないようなこと。歴史的な瞬間に立ち会っている感動で、胸が熱くなりました」

地域本部・夜スペ実行委員長の高木弘子はそう振り返る。

翌年1月、和田中で「夜スペ」がスタートした。それは河合が和田中を訪ねてから、わずか3カ月後のことだった。「夜スペ」はあらゆるマスコミに取り上げられ、瞬く間に全国的な注目を浴びた。「なぜ公立で塾なんだ」と批判的な意見も浴びながら、19人の「吹きこぼれ」たちを対象にした「夜スペ」はとにかく走り出した。

ここまではすべてが順調だった。河合にとっての試練は、藤原が任期を終えて予定通りに退任した4月以降に待ち受けていた。打ち上げ花火は美しいが瞬間で終わる。白日のもと、華々しく夜空を彩った花火の残骸を拾い、普段の生活に戻っていく作業は地味で時に辛い。

来春の合格実績に関係者の注目が集まる

「それが藤原さんの戦略だし、僕もそれだけの大仕事でなければ受けなかった」


取材中、集中力の途切れる場面もあったが、吉永英樹講師は声を荒らげずに生徒の名前を呼んで対処していた。

藤原の後任となった二代目の民間人校長・代田昭久は涼しい顔で答えた。藤原と同じリクルート出身の代田は、前代未聞のプランをぶち上げ、これまでの価値観に揺さぶりをかけるという藤原流の仕事を部下としても目撃している。

「藤原さんは『公教育に民間の活力を』という目標を掲げ、最後に壁を打ち破った。彼が去った後を地ならしして日常に沿う事業に整えていくのが、引き継いだ経営者である僕のミッションですよ」

就任1カ月後の08年5月、代田新校長は「夜スペ」の方針を、「吹きこぼれ限定」から「望むなら誰にも」に転換した。というのも、校内には「夜スペ」に参加せず校外の塾に通う生徒もいるため、19人は厳密な意味での「和田中のトップ19」ではなかったからだ。成績不問の二次募集を行ったところ、受講者は3クラス39人に増えた。

「夜スペ」の授業を担当しているサピックス講師の吉永英樹は、「通常のサピックスの授業は成績の近い生徒だけを集めてクラス編成をしてあるが、夜スペは成績の幅が広い分、授業前に特別な準備をしている」と打ち明けた。