小学校から高校まで都内の私立校、暁星に通っていた大曽根は、「ぜんぜん勉強しなかった」こともあり、1浪したものの大学進学を断念。「好きな音楽の仕事がしたいから」と音楽系の専門学校に進んだ。その学校を卒業し、音楽業界への道を模索していた1999年6月、父親が脳梗塞で倒れた。

当時の松栄米穀の仕事は、スーパーへの卸が売り上げの5割を占めていて、あとの2、3割が飲食店などの業務用、残りの1、2割が家庭用。父親が倒れた翌日にはスーパーへの納品があったが、それまで家業に興味がなかった21歳の大曽根は、精米機の動かし方すらわからなかった。

そこで精米機のメーカーに電話をして、操作方法を確認。幸いにも父親が意識を取り戻していたため、店のなかにあるものをすべて写真に撮り、スピード現像して病院に持参し、なにをどうしたらいいのかという指示をメモした後、自宅に戻って仕事を始めた。父親が入院していた1カ月間、この生活が続いた。

「当時は自宅と病院を1日3、4往復しながら、納品してましたね。1カ月で10キロくらい痩せたんですよ。人生で一番働いた1カ月ですよ」

筆者撮影
メニューの名前はズバリ「米とステーキ」

年々減少する店の売り上げ、縮小するコメのマーケット

この出来事がきっかけで、父親が退院した後も家業に専念することになった。子どもの頃から「長男だし、継ぐことになるんだろうな」と思っていたそうで、特に抵抗はなかった。

大曽根の仕事は、コメについて学ぶことから始まった。一昔前に書店で売られていた、職業ごとの「○○になるには」というタイトルの書籍のなかから、米穀店を扱った本を買ってひと通り読み込み、民間資格の「米・食味鑑定士」の資格も取得した。

コシヒカリ、ササニシキ、あきたこまち、ひとめぼれなど多様な品種の味の違い、さらにコシヒカリでも産地による品質の差などがわかるようになってきて、次第にお客さんにセールストークができるようになっていった。

筆者撮影
カウンターに立つ店主・大曽根克治さん

しかし、その間も松栄米穀の売り上げは落ち続けていた。これは、業界の変化も大きく影響している。もともとコメの生産、流通、販売は政府の管理下にあった。米穀店は許可制で、コメの価格も定められていた。それが、1995年に食糧法が施行され、流通の自由化によってスーパーやコンビニなどでもコメが売られるようになると、わざわざ米穀店でコメを買う人が激減した。