社会性の欠如はスポーツ界の構造的な問題

ただし、この「社会性の欠如」を、アスリートだけの責めに帰すのはいささか酷であるとも思う。

成城大学の山本敦久教授(身体文化論)は『アスリートたちが変えるスポーツと身体の未来』(岩波書店)の中で「現代アスリートは、資本、国家、メディア、プライベートのみにつながれていて、社会性を喪失させられてきた」と指摘する(強調筆者)。

つまり、アスリートを取り巻く環境にも問題があるのだ。先に述べたIOCの通達や箝口令も踏まえ、アスリートの「社会性の欠如」は属人的要素だけに起因するのではなく、スポーツ界が抱える構造的な問題として捉えなければならない。

幼い頃からそのスポーツに取り組むアスリートは、競技力にさえ秀でていればそれでよかった。競技成績を残すためだからと、理不尽な言動を繰り返す指導者にも、無理難題を押しつける先輩にも、異議を唱えることなく耐え忍び、保護者をはじめ周囲の期待を裏切らないよう自らを奮い立たせてきた。運動部活動をはじめとする若年層のスポーツではおおむねこうした傾向があり、とりわけ日本においては顕著である。

理不尽に耐え、期待に応える。ここには「けなし」か「励まし」かの違いがあるにせよ、「他者からの介入」という点で共通している。「けしかけている」ことに変わりはない。

つべこべいわずに練習しろ/努力は必ず報われる

「無理」とか「できない」とか言うな/あきらめなければ結果は出る

まだまだ練習が足らん/あなたには才能がある

​スポーツ以外のことは考えるな/ひとつのことに集中するのが美徳だ

写真=iStock.com/stevecoleimages
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スポーツだけに打ち込むあまり視野が狭くなる

叱咤にしろ激励にしろ、とどのつまりは鞭を打つか人参をぶら下げるかの違いであり、これらの言葉がけから伝わる暗黙のメッセージは、「あなたが生きる道はこれしかない」に他ならない。

こうしてアスリートは幼少期から狭い世界に囲い込まれる。脇目も振らずスポーツに打ち込むうちに気がつけば社会と隔絶され、その狭い世界でアスリート特有のハビトゥス(嗜好性・価値観)が形成される。勝利至上主義や体制への従順さこそが善であると刷り込まれる。とりわけ同調圧力が高いとされる日本社会では、これが顕著なのである。