和歌が詠めるインテリ武士
梶原の優しさは、他の形でも発揮されている。『吾妻鏡』には、梶原の和歌が残されている。
和田義盛のように、東国は脳みそ筋肉大量生息地帯だというのに、梶原は和歌が詠めた。例えば、建久元年(1190)に頼朝が都へ行く道中、「はしもとの君にはなにをわたすべき」と和歌の上の句を詠んだ際、梶原がすかさず「たたそまがはのくれてすきばや」と下の句を詠んでいる。
他人の詠んだ和歌の上の句へすかさず下の句を詠んで完成させる詠み方を、連歌というのだが、普通の和歌を詠むのもやっとの人間にはできない芸当だ。それを難なくきちんとこなせるほど、梶原は和歌の素養があったのだ。
そのことを示すように、『吾妻鏡』には梶原の息子達の和歌も収められている。自分だけではなく、息子達も和歌が詠めるようにしつけていたとは、梶原の教育力は高い。
梶原が和歌を詠めたことは当時有名だったようで、曾我兄弟の仇討ちの顛末を描いた『曾我物語』にも、梶原が和歌を詠む場面が登場する。
心優しく、風流でもある。これが『吾妻鏡』から見えてくる梶原だ。とても申し分のない好人物だ。
好人物でも数の暴力には勝てなかった
そんな梶原だが、頼朝の死後わずか1年で失脚。その後再起を図ろうと、一族郎党を率いて都へ行く途中に、北条氏の地元だった駿河国(静岡県)で襲撃されて自害した。これを梶原景時の変という。しかし、北条氏の地元……間違いなく北条氏はクロだ。
ところで、梶原はどうして失脚したのか。
それは、有力御家人達総勢66人が「梶原くんは、いつも同僚を讒言しているので困ります」という署名を集めて失脚させたのだ。北条氏はこの出来事に便乗して、梶原へ最後のとどめを刺したのである。
本人がいくら好人物であっても、数の暴力には勝てない。
現代社会でも通じる、せちがらい真実を体現していた梶原だった。