監視し合う両親、娘を監視する
小学校に上がった澤田さんは、2年生の夏休みに麻疹に感染。母親は仕事を休もうとはせず、澤田さんを本来なら父親が継ぐはずだった「隣の家」に預けて出勤。
「隣の家」とは実家のこと。父親は駆け落ちし、跡取りを放棄させられたものの、家と完全に縁を切ったわけではなかったのだ。家の跡を継いだのは、婿取りをした叔母だった。
叔母は、母親には「見ていてあげるから、預けて仕事に行きなさい」と言っておきながら、病床の澤田さんに対しては、「皆勤手当ての2000円が欲しいからって、病気の一人娘を置き去りにして仕事に行くなんて、ゆう子のお母さんは鬼のような女だね」と嫌味をささやいた。
「叔母は、有望な甥だった私の父の未来を奪った母を許していなかったのでしょう。私は『隣に行きたくない。お母さん、会社を休んでほしい』と思いながらも、それを言うと両親が困ることになるだろうと考え、言葉をのみ込みました」
略奪婚を果たした両親の結婚生活は幸せそうだったかというと、ひとり娘である澤田さんにも「わからない」という。子供の頃は、頻繁に激しい夫婦げんかを繰り返し、時に母親に手を上げる父親、そして顔を腫らして自分の姉妹に電話をかけ、助けを求める母親の姿を何度も見ていたからだ。
「『ゆう子さえいなかったら離婚している』という母に、私はあるとき正直に言いました。『離婚すれば? 私はこの家に残るけど、離婚して好きに生きればいいじゃない』。その瞬間の母の顔は今でも忘れられません。娘は自分の味方ではないと思い知ったのでしょう。母は明らかに驚いていました」
交際期間はほぼなく、出会いからひと目で恋に落ち、ろくに会うこともままならず駆け落ちした2人にとって、澤田さんが思春期に入る頃が、夫婦としての倦怠期のピークだったのかもしれない。両親ともに「こんなはずじゃなかった」と責め合いながらも、一方ではお互いに来る手紙や電話に過敏になり、常に相手の交友関係に目を光らせていた。
澤田さんが小4になった年、父親が交通事故に遭い、入院。幸い命に別状はなかったが、母親は父親の病院に寝泊まりし、病院から仕事へ行くことを決める。そのため澤田さんは、父親が入院していた2カ月もの間、またしても叔母の家に預けられた。
「2カ月間、『自分のことはいいから、娘のために家に帰ってやれ』と父は言わなかったのだろうか? 誰かがつきっきりでないといけないほどの状態だったのだろうか? と考えなかった日はありません。それに加えて、叔母から毎日のように母の悪口を聞かされるのは、とてもつらかったです」
叔母は、甥の嫁である母親の悪口は言ったが、澤田さんのことはかわいがっていた。叔母には息子しかおらず、澤田さんは従兄弟たちとも仲がよかった。
とはいえ、小4といえば、年齢は9〜10歳。まだまだ母親にそばにいてほしい年頃だろう。それでも娘よりも夫のそばにいることを選ぶ母親と、「自分よりも娘のそばにいろ」と言ったか言わなかったかはわからないが、結果的にはそうさせなかった父親は、もしかしたら、お互いに監視せずにはいられなかっただけなのかもしれない。