清盛は日宋貿易のおかげで過大評価されている

昨今、日宋貿易への傾倒から、清盛を過大評価する向きも多いが、それは清盛の一部にすぎず、その大部分は、自らの係累や家人を知行国守や国司の座に就けること、すなわちこの時代の利益の源泉となった荘園や耕作地の奪取に向けられていたのは紛れもない事実だ。

平相国清盛 月岡芳年画(写真=芳年武者无類/PD-Japan/Wikimedia Commons

言うなれば、ゼロサムゲームの中で総取りを狙ったのが平家の実態で、わずかに日宋貿易を盛んにしてゼロサムゲームから脱しようとしたことを、ことさらクローズアップすることもないはずだ。

政権を維持するには、様々な権力を持つ機関(この時代なら権門勢家)の利害を調整し、それぞれの反発を最小限に抑える努力が必要になる。言わば誰もが大満足ではないにしろ、我慢できる範囲に収めることで反発を和らげていく努力が必要だ。しかし人というのは武力を持つと、どうしても使いたくなるのが常だ。

清盛には後の源頼朝と鎌倉幕府のように、朝廷との共存共栄を装いながら自らの勢力を浸透させていくという緻密で周到な計略はなかったことになる。

長男が早世し、清盛の暴走を止める人はいなくなった

また絶対的な権力を握った者は、自分の力を過信したがる傾向がある。清盛はその代表のようなもので、後白河法皇に対する強引な措置(治承三年の政変)に見られるように、晩年は力の過信だけでなく、感情を制御できなくなっていた節がある。

同時に、自らを支える根幹となる地方の武士(開発領主)に対する配慮も行き届いていたとは言い難い。これも独裁者ならではのことだろう。

例えば大番役などは、所領を三年も留守にする地方武士にとって不安この上ない。

しかも負担は自腹なのでたまらない。嫡男が大番役で京都に詰めている間に当主が亡くなった場合、地元で弟や叔父が惣領の座を奪うことさえあったのだ。後に頼朝は、平安時代には三年だった大番役の期間を半年ほどに短縮したが、こうした配慮を清盛がした形跡はない。これなどは独裁者ゆえの共感性のなさに起因するものだろう。

清盛の場合、有能かつイエスマンではない側近集団を持たなかったことが、独裁的傾向が強くなった理由だろう。相談相手としては藤原邦綱の名が挙がるが、腹心というより朝廷との間に入った調整役の色が濃いように感じられる。