主観的な苦しみは否定しないが…

その人にとって主観的な経験として耐えがたい苦しみが存在していることは否定しえない事実であるだろう。一方でその主観的事実の存在によって世界のすべてが説明されるわけではない。ある女性にとっての苦しみがあることは、世界がその女性を苦しめるものとして存在していることを断じるものではない。

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しかし、そのような原因帰属の飛躍、つまり認知的誤謬は、たとえ誤謬であったとしても、すでに疲れ切ってしまっている人にとっては些末なことだ。いま目の前に、自分の痛みを理解してくれる人がいて、その痛みの原因をはっきりと――自分以外のなにか、あるいはだれかにあると――示してくれることが重要だからだ。痛みに寄り添ってくれる物語は真実となる。

「○○を倒せば世界はもっとよくなる」、「それを倒すことで世界がよりよい方向に進む」と期待できるわかりやすい悪を明確に提示してくれる「単純系」と、「あなたの生きづらさや苦しさは、あなたのせいではなく○○の加害によってもたらされた」とする「責任の外部化」が、多くのラディカルな思想に共通する。この共通点があるからこそ、多くの人を、複数の思想のかけもちに誘い込む。

傷つき弱った人に刺さった棘――そうなったのはあなた自身の努力不足、または性格や人格などの問題によって生じた結果だという声――をやさしく抜きながら、「あなたを傷つけたのはあいつだ。一緒に戦おう」と寄り添ってくれる思想体系が、多くの人を魅了するのは当然だ。グローバルな情報ネットワークやコミュニケーションの相互作用がますます強化され、その複雑性が日増しに強まっていく世界において、「単純系」の魅力は失われることはなく、むしろその版図を拡大し続ける。

私憤が共鳴によって義憤になる

共鳴するラディカリズムに集まる人びとは、お互いが自分と同じような生きづらさや抑圧感を抱えていることを認識しはじめる。やがて、物語と人が共鳴するだけでなく、人と人ともまた共鳴するようになる。文字どおりの意味で、自分ひとりが抱えているにすぎなかった私憤は、大勢の人が同じ思いを共有していることによって公憤へと昇華されるのである。

「個人的なことは政治的なこと」という広範なリベラリズム運動に歴史的に共有されてきたコンセプトは、私憤が共鳴によって義憤になるという機序を端的に表現したものだ。