無観客開催、政治でズタズタになった開閉会式

2021年に2020を開催するとの決定。明日のことを言えば鬼が笑う、で、「本当にできるのかねぇ」とまあ先のことなど何一つ見通せない人類社会未曾有の状況に、誰もが五輪開催だなんて話半分に聞いた。仕方がないのは重々承知だけれど、それはみんなが思い描いていたものと同じ姿には絶対ならない。

アスリートのコンディションを始め、全てが一時停止ではなくてむしろ後退。「お・も・て・な・し」産業の女性活躍なんてゼロどころかマイナスへ掘り進む状態。ある点に向かって一斉に集中力を高めていた全てのものが、ブツリという鈍い切断音と共にバラバラ離れ落ちていくようだった。

その頃、朝の情報番組に末席のコメンテーターとして呼ばれ始め、コロナだアベノマスクだ緊急事態宣言だ自粛だクラスターだとやっているうちに、嘘のような本当の「無観客開催」が決定し政治でズタズタになった開閉会式を見たショックは、昨年の当コラムで背中を丸めて泣きながら書いた。

2012年以来思い描いていた未来予想図からはかけ離れすぎて、近年の思い出の中では際立ってショックが大きかった。

「オリンピック、本当に要りますかね~? もう要らないんじゃないですか? ガハハ!」と言い放つのが一種お家芸となっていた、大物コメンテーターの剛毛の生えた心臓が羨ましかった。正直、ご覧の通り(ええご覧の通り)繊細な私としては、夏季も冬季も、オリンピックはあんまり思い出したくないのである。

写真=iStock.com/Joel Papalini
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「期待」に綺麗に応えた記録映画

そんな、個人的にはあんまり思い出したくない、「2021に行われた2020の記録」を見に行ったわけであるが、なるほど「SIDE:A」はIOCのオーダーと「河瀬作品」への期待に綺麗に応えた内容で、公開前の批判的報道の結実なのか「映画も無観客」と皮肉られるほど観られていないのがかわいそうに思えるほどだった。河瀬が対象に選んだ女性アスリートや亡命アスリート、競技、彼らが立てた音、発した声、言葉の選択や表情や動作に現れる機微が高解像度で刻まれ、2021年の日本のあの夏があの夏の姿のままそこにあった。

日本に五輪がやってくるぞとなった時、最重要のナショナルイベントの記録映画は誰に撮らせるかとなった時、「その候補者の中に存在し得ていた」「しかも選ばれた」というのは、それだけで才能だ。