「自分の中でケジメをつけられないまま辞めてしまったことが、ずっとどこかに残っていて。生きている間に納得がいくまで、生徒たちのためにやりきりたい。そんな思いがありました」
そんな中、2020年の暮れ、沖縄に住む妹から連絡が入る。「体調のすぐれない父親が病院に行こうとしない、一緒に説得してほしい」という頼みだった。十数年ぶりの父との再会は、まるでへその緒がつながるかのように、アンナ氏と「沖縄アクターズスクール」の縁を結び直す転機をもたらした。
映画監督、宝塚、俳優に囲まれた芸能一家
1971年に東京で生まれたアンナ氏は、米軍統治下にあった沖縄が本土に復帰した年の72年、1歳で両親と共に沖縄に移り住み、県内のインターナショナルスクールに通った。
父親のマキノ氏は、1950年代に日本映画の礎を築いた牧野省三氏を祖父に持ち、父親は数々の映画製作を手がけ、「マキノ映画」として一ジャンルを築いた映画監督・マキノ雅弘氏、母親は宝塚歌劇団出身女優の轟夕起子氏。さらに、俳優の長門裕之氏・津川雅彦氏は従兄弟にあたるという芸能一家の血筋を受け継ぐ。人材の発掘と育成能力でずば抜けた手腕を発揮した点は、多数の映画スターを育てた祖父・省三氏の功績とも重なる。
1983年、マキノ氏がタレント養成所として沖縄アクターズスクールを創設したとき、アンナ氏は11歳。それ以来、最初は生徒として、のちに指導者として、事業の舵取りを担うマキノ氏の右腕となってスクール運営をサポートし続けることになる。
「父はある種の天才なので、その分偏っているんです。自己中心的で周りは振り回されてばかり。でも、だからこそ、あれだけのことができたのだと思うんです」
その強烈な存在感についていけない人間も
卓越した指導力以上に、スクールにおけるマキノ氏の絶対的な存在感と態度は、時に周囲に戸惑いを与えた。過去、一緒にいることが限界に達し、断絶状態となってしまった人はアンナ氏1人ではない。家族や周囲の人と、素朴な愛情や友情、信頼関係を育むことは容易ではなかったという。そんな親であり、指導者を持つ独特な環境に育ったことが、スクールにおけるアンナ氏の、特別な立ち位置を形づくっていくことになる。
「沖縄は私のふるさとであり、原点」とアンナ氏は語る。父親は京都、母親は東京の出身で、家では料理も言葉も「完全に本土スタイルだった」という。