「でも、私は沖縄で育っているからなまりがしゃべれる。沖縄では本土の人を『ナイチャー』と区別するし、父はウチナーンチュ(沖縄人)に対してすごく強い言葉を投げつけ、反感を買うことも少なくなかった。だからというわけではないけれど、子ども心に、沖縄の人たちの中にいる時はあえて“沖縄”を出すようにしていました。東京から来た人って思われないように。その感覚は無意識に今もあります。こっち(沖縄)の人に思われたいって」

14歳の娘にレッスンを丸投げ

沖縄の血を持たずとも、「沖縄の人」の気持ちや感覚がわかるアンナ氏だからこそ、多様なルーツが混ざり合う沖縄の子たちの感性に、溶け込むように寄り添うことができた。トップダウンの経営者と、生徒や保護者たちの間に入るアンナ氏は、スクールにとって絶対に欠かせない存在だった。

現場を任せられるインストラクターへと、アンナ氏を導き育てるマキノ氏の育成方法に、“常識”など存在しなかった。

「14歳からレッスンさせられていましたが、なんの知識もない私に父は全部丸投げなんです。レッスンの仕方が分からないと言っても、『何でもいいから考えろ、やっていないのになんで分かるんだ』という。どうやってやるかを死に物狂いで考えてやれ。失敗したら任せた俺の責任なんだから、お前はもがいて苦しんでやれ。全部そんな感じでした」

ミュージカルをつくれ、脚本をかけ、公演会を企画しろ…

「元々、音痴でリズム感もなく、歌もダンスも覚えるのに苦労していた」というアンナ氏に、マキノ氏は半ば突き放すように、こういった。

「何もできないからこそ、お前ができるようになれば、そのプロセスを教えられるようになる。できない人の気持ちが分かるようになる」

ミュージカルをつくれ、脚本をかけ、公演会を企画しろ――。校長から次々と降ってくる要求は、16、17歳の身には到底無茶に思えた。「でも、そのプロセスを全部経験していくと、大概のことはやれるんですよね」と笑う。会場の借り方から照明、音響など、電話帳片手に調べ尽くし、大人に助けを求め、「できる方法」を考えた。結果的に、経験したことの一つ一つが、「指導者」としての基礎を創り上げているという実感をつかむのに、それほど時間はかからなかったという。