皇太子たるにふさわしい学校の第一候補とは

皇太子さまの学力が東大合格に足るか、どう受験させるか。そういう視点がまるでない会話なのだ。「皇太子なら東大でしょ」。そんな気楽さというか、当たり前な空気が漂っている。

昭和天皇も、息子のことより東大の南原繁総長が嫌いという主張をする。貴族院議員でもあり、戦後「天皇退位論」を説いた人だったからだろうが、それにしてもそっち?失礼ながら、そうツッコミたくなる。

偏差値が今のように幅を利かせていたわけではない。そういうこともあったろう。が、シンプルだったのだと思う。皇太子たるにふさわしい学校に行く。第一候補は日本の最高学府の中でも東大。この考えが皇室全体のものだったことは田島氏と秩父宮さま(昭和天皇の一つ下の弟)とのやりとりの記述(同年1月5日)からもわかる。

田島氏は秩父宮さまに、皇太子さまの外遊方針を説明した。「日本の大学入学前に3カ月くらい渡米」と話したところ、秩父宮さまがこう反応したという。

<東大といふことになれば随分共産党員の学生なども居るしどうかと思ふと仰せにて、さもなければ学習院大学でございますがと申し>

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「日本の将来は、あなたがどう大人になるかで決まる」

さらりと書かれた「東大→学習院」。その理由は、当時の皇太子さまの立場に大いに関係している。『昭和天皇拝謁記1』の冒頭近く、田島氏が皇太子さまと会った1949年2月28日のメモにこうある。

<日本の将来は、皇太子様の如何に御成人にかゝるかの重大事なること、田島職責中の最大の一たること(略)国民との接触上友人は最良の師にて、切磋琢磨御必要のこと等言上す>

日本の将来は、あなたがどう大人になるかで決まる。15歳の皇太子さまにそう言っている。占領下、天皇の退位も現実味があった。だから皇太子さまには、「天皇としての自覚」を早く身につけてもらいたい。洋行がダメなら国内、国内ならまず東大。戦後という環境が、その道をシンプルにしていた。秩父宮さまも東大が前提で、「共産党員の学生がいる」と懸念を示している。

田島氏は、<東宮様は上、中、下とわけて上の部に御入りになり、馬、テニス何でもなさいます>(1950年7月5日)と昭和天皇に語ってもいる。1885(明治18)年に生まれ、府立一中、一高を経て東京帝大卒の田島氏。「上の部」という表現は学力十分ということだろうから、東大進学の議論に無理もなかったのだろう。で、どうなったか。