BSJに潜む“精神的暴力”
この問題については、すでに2013年のグレーバーの小論の時点でこう提起されていました。再度、確認してみます。
・とりわけ1960年代、自由時間を確保した充足的で生産的な人々があらわれはじめた(ヒッピームーヴメントのような動きもその一端でしょう)。この状況に支配階級は大いなる脅威を感じることになる。
・それとは別に、わたしたちの社会のうちにはかねてより、労働はそれ自体がモラル上の価値であるという感性、めざめている時間の大半をある種の厳格な労働規律へと従わせようとしない人間はなんの価値もないという感性が常識として根づいていた。これは支配階級には、とても都合のよいものだった。ネオリベラリズムはこの感性を動員する。
・その感性が、有用な仕事をしている人間たちへの反感の源泉にもなる。つまり、労働そのものが至上の価値であるならば、その価値観でもって働いている人間にとっては、それ以上の価値をもった仕事に就いている人間は存在そのものが妬ましい対象である。そしてその妬みを促進するのが、BSJに就いていることにひそむ精神的暴力である。
・このようなモラルの力学が、はっきりと他者に寄与する仕事であればあるほど、対価はより少なくなるという原則を裏打ちする。
・さらには、これを矛盾ではなく、むしろあるべき状態とみなすという倒錯がある。
市場価値と社会的価値
こういった議論の構成です。ここから確認できるのは、
(1)労働はそれ自体がモラル上の価値であるという感性がある
(2)それが有用な労働をしている人間への反感の下地となっている
(3)ここから、他者に寄与する仕事であればあるほど、対価はより少なくなるという原則が強化される
(4)さらに、それこそがあるべき姿であるという倒錯した意識がある
この逆説はこうした価値意識に根ざしています。人は労働に市場価値だけでなく社会的価値をもとめています。市場価値にすべて還元することはなかなかできません。
ところがそれが社会的価値のある労働への反感の下地にもなっているのです。