戦後も続いた密かな相思相愛

その一方、小津には31歳の時に出会った密かな愛人がいました。当時、小田原の「清風」にいた森栄という芸者で、たいへんな美人の上に笛の名手。小津が大陸に出征した際には三島駅まで見送りに来て、小津に自分の大切なお守りを渡し、帰還した小津は「おかげで無事に戻ったよ」とそれを返しています。二人のあいだは相思相愛といえるものでした。

とはいえ親や親族が納得する相手ではありません。当人たちは気にしなくとも、世間がうるさかった時代。自分のスタイルにこだわる小津は、煩わしい波風が立つのを避けました。ふたりの密かな関係は戦後まで続きます。

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ちなみに小津は1935年から母と同居していました。母は深川の小津家で兄夫婦と暮らしていましたが、嫁姑の折り合いが悪く、見かねた小津が母と弟を引き取っていたのです。子供にとっては優しく面倒見のいい母ながら、気の強いところがあり、自分は兄の轍を踏むまいと思っていた節があります。

そう心に決めてしまえば、却って小津は自由に、自分の目と心を楽しませてくれる女性を思う存分眺めることが出来たのではないでしょうか。小津監督が女性を美しく撮れたのは、そこに自分の願望や美意識はあっても、欲望や下心はなかったからだと感じます。

でなければ、女優にあそこまで冷静に厳しくなれない。小津は何度もやり直しをさせ、「8回目の手つきで、目線の動かし方は32回目で、もう一度」などという指示を出したといわれ、現場の緊張感は、一歩間違えば大事故が起きるアクション映画以上だったといいます。

もっとも、セットから出た後の小津は気さくでユーモラスな人柄で、キャストもスタッフも信頼していたそうですが。

手をふれるより、眺めていたいひと

そんな小津が気に入っていた女性がいました。

一人は大船撮影所近くの食堂「月ヶ瀬」の看板娘・杉戸益子。彼女は撮影所みんなのマスコット的存在で、小津も杉戸家とは家族ぐるみで付き合いました。益子は二枚目俳優・佐田啓二と結婚しますが、佐田は小津の戦後作品の常連であり、その後も暖かな付き合いが続きました。

もう一人はいうまでもなく、女優の原節子です。原は戦前から活躍していた美人女優ですが、小津作品への起用は意外と遅く、1949年の『晩春』が最初。この時小津は45歳、原節子28歳。やもめの父を気遣って、一人娘が婚期を逸するのを懸念した父(笠智衆)が、自分も再婚するふりをしながら娘を送り出す話です。

もともと原節子は美人女優ですが、『晩春』の彼女は神々しいばかりの気迫があって、「小津監督は原節子に惚れている」と囁かれました。そうした噂は『麦秋』(51)、『東京物語』(53)と出演作が出るたびに高まり、結婚の噂が記事になるほどでした。

小津も噂が立っていることは知っており、まんざらでもない様子でしたが、だからといって何らかの行動をすることはなかったようです。原節子には別に好きな相手がいたといわれ、小津もそれを察していたのか、二人の関係は映画を通しての絆以上のものにはなりませんでした。

小津が映像で描いた原節子の役柄は、理想の娘、理想の未亡人、理想の母であり、そこに理想の妻はなかったのです。