お手本であり、ライバルだった兄

鳥海が幼少時に通っていた菜の花こども園(長崎市)で撮影された、運動会のビデオ映像がある。そこには、両足の下肢がない鳥海が両手と膝から上の足を器用に使い、ほかの子どもたちと同じように竹の棒によじ登ったり、器用に逆立ちをして歩いたりする姿が残されている。

写真提供=鳥海選手
保育園時代の鳥海選手

1999年に長崎市で生まれた鳥海は、先天的に両手、両足に障害を持っていた。右手の指は4本、左手は親指と人さし指の2本で、両足のすねの骨もなかった。

両親は将来のことを考えて、3歳の時に下肢を切断。それでも菜の花こども園ではほかの子どもと対等に扱い、まずはチャレンジさせてみて、できないことには寄り添い、温かく見守った。それが、運動会の映像にも表れている。菜の花こども園について、鳥海は「今の僕の人柄やバスケットを始めるきっかけにもなったし、いろんなところに繋がってる」と語る。

幼少の頃から身体能力が高かったようで、本人の記憶では5歳頃から家のなかでも逆立ちで歩いていたそうだ。身体を動かすことが好きで、普段は義足で友だちと一緒に外で駆け回っていた鳥海は、小学校に入るとサッカー、バスケットボール、野球、バドミントン、バレーボール、ドッジボール、スケートボード、スノーボードとなんにでも挑戦した。鳥海にとって最初のライバルは、1歳年上の兄だった。

「兄は運動神経もいいし、努力もするし、なにをするにも僕より上手くて、すごいなっていう感覚でしたね。でも兄に負けたくないという気持ちがあって、僕も一緒にいろいろとやってきました。一番身近にいるお手本であり、ライバルでもあり、大きな存在だったと思います」

友人や兄と同じように体を動かすことができない。それで傷ついたことはありましたか? と尋ねると、鳥海は首を横に振った。

「僕は成長してから障害者になったわけではないので、昔できていたことができなくなったという体験がありません。いつも、今ある自分の体でできることをしてきました。それに、友だちも家族も、みんなで楽しく遊ぶという感じだったから、僕が楽しめるようにもしてくれていたと思います。だから、障害があるからどうだと考えたことはないし、それでネガティブになることもなかったですね」

「なんだこれ!?」車いすバスケとの出会い

小学校6年生の時、長崎大橋の先に浮かぶ西海市の大島に家族で引っ越し。そこで中学に上がると、友だちと一緒にテニス部に入った。

写真提供=鳥海選手
カメラに向かってポーズをする鳥海選手

テニスコートの横に立つ体育館から、義足でテニスをする鳥海に目を留めたのは、女子バスケットボール部の監督。その監督は車いすバスケットボールの審判をしていたこともあり、ある日、「車いすバスケットボールをしてみないか?」と声をかけた。

もともと鳥海家はバスケットボール一家で、両親は学生時代にバスケットボールをしていて、1歳年上の兄も小学生の頃からプレーしていた。父親と兄とは家でよくバスケをして遊んでいたから、鳥海にとっては身近なスポーツだった。しかし、車いすバスケットボールは別物だった。

監督からの誘いを受けて、隣町の佐世保で活動する車いすバスケットボールクラブ「佐世保WBC」の見学に行った鳥海の感想は、「なんだこれ!?」。初めて触れる、競技用の車いす。乗せてもらったはいいものの、まっすぐぐことすら難しい。