薪を背負いながら何を読んでいたか

おしゃべりの者がいた。尊徳が、さとした。

「人に説くことをやめよ。おのれが心にて己(おのれ)が心に異見せよ。おのれ修まって人に及ぶ」

「汝売買をなすとも必ず金を儲けんなどと思うな。ただ商道の本意をつとめよ。本意を忘れたなら、眼前は利益を得ても結局滅亡を招く」

「貧乏を免(まぬが)れんと欲せば、先づ庭の草を取り、家屋を掃除せよ」不潔のところに厄病神が寄る。

薪を背負い、歩きながら尊徳少年が読んでいた本は、『報徳記』によると、儒教の経書『大学』らしい。尊徳は「経典余師(けいてんよし)」で読んだようである。これは独学用の本で(余師は師匠以上の意。つまり、この本があれば先生は必要ないの意)、読み方、解釈、語義などが懇切に出ている。江戸時代のベストセラーである。

尊徳はこれらで独学したのだが、書物や学者に対しては、きわめてシビアであった。

こう述べている。「大道(だいどう)はたとえば水の如し」道徳は世の中を円滑にする。だが、これを書物に書くと、役に立たない。たとえば水の氷りたるが如し。もと水に違いないが、少しも流れず潤わさない。水の用をなさぬ。そして書物の注釈というものは、氷に氷柱(つらら)の下りたる如く、氷のとけて氷柱となったのと同じ、世を潤わさない。氷となった経書を役に立てるには、心の温気で解かして、元の水として用いなければならない。温気なしで氷のまま用いて水の用をなすと思うは、愚の至りである。学者が世の役立たずなのは、これが為なり。「ゆえに我が教えは実行を尊む」

俗物学者が塾を開いていた。この先生、すこぶる酒が好き、ある日、酔ってい汚なく道に寝ているのを見て、塾生らあきれて塾をやめてしまった。酔っ払いの過失は認めるが、自分は聖人の書を教えている。私の不行跡を見て聖人の道を捨てることはあるまいに、と尊徳にこぼした。尊徳が答えた。君は飯をたいて肥桶に入れ客に出したのだ。君はこれを食うか。飯は聖人の学だが、桶は君だ。君は何の為に学問をするのだ。俗人先生いわく、私は間違っていた。「我只(ただ)人に勝たむ事のみを欲して読書せるなり、我過(あやま)てり」

この小稿が、願わくは肥桶であらねばよいが、とおどおどしつつ筆を置く。

※すべて雑誌掲載当時