第2に、日本の敗戦はモンゴル人民共和国と統一合併運動を促進した。内モンゴル人を解放したのはモンゴル人民共和国とソ連の連合軍だった。
対日参戦を「民族解放の戦争」と位置付けるモンゴル人民共和国も、内モンゴルの同胞との統一国家建国を理念としていた。大国同士の裏取引により統一は実現できなかったが、中国を選ぼうとしなかったモンゴル人は中国当局の恨みを買っていた。
1960年代に入り中ソ対立が激しくなるにつれ、「対日追随」と「モンゴル人民共和国との統一合併運動」という2つの「前科」が問題視された。
ソ連軍が進攻すればモンゴル人は中国から離反するとみた中国政府は事前粛清を決意し、それが文革時のジェノサイドに発展した。
大虐殺の後遺症は多々ある。モンゴル人は日本統治時代に誕生したエリート層を完全に失った。それ以降、中国政府に対して組織的に抵抗する力は削がれ、「内モンゴルは民族問題が存在しない、模範自治区だ」と謳歌されるようになった。
ジェノサイドこそ最も有効な異民族統治方法だと、中国政府は暴力の味を占めた。実際、文革以降は新疆ウイグル自治区とチベット自治区でも強行一辺倒の支配手段が移入された。
100万人ものウイグル人が強制収容施設に閉じ込められている現実と、昨年夏から続くモンゴル語教育の廃止政策も、文革期のモンゴル人ジェノサイドで得た「成功体験」の活用にほかならない。