「早くしなさい」「ちゃんとしなさい」「いい子ね」
父は子どもに、何ができるのか。
初めてそれを真剣に考えました。
同時に、自分自身が生きてきた環境や、父母との関係、通った学校、受験の経験などを思い返しました。生まれたときから一貫して成長を続けてきた日本経済と社会が自分に与えている影響は何か。さらには、サラリーマンとして働く自分の考えや価値観にどのような影響を及ぼしているかについて、一つひとつ読み解いていったのです。
すると、次第に分かってきました。私の何げない妻への態度や、息子に何かを要望するときの言動が、遠く離れた「日本」の成長社会の呪文の数々から計り知れない影響を受けていたことを。
「早くしなさい」
「ちゃんとしなさい」
「いい子ね」
息子にこの言葉を何度言ったことでしょう。この三拍子を常に求められるのが、典型的な日本のサラリーマンでもあります。
だから、この呪縛から息子を解き放ってやらねばならない。そう、気づいたのです。
思えば私は、指折りの「早く、ちゃんとできる、いい子」のサラリーマンでした。子育てを通じてようやく、自分に刷り込まれたものの根の深さに気づくことができたのです。
新しい父性の型が形づくられていった
自分の中での「聖戦」が始まりました。
幾度となく、自分に言い聞かせたものです。
「早く! と、言わない」
「ちゃんと! も、言わない」
「いい子にしなさい! も、禁句」
強烈な呪文の呪縛を解くかのように、何度も何度も心の中で繰り返しました。
こうして私にとっての新しい父性の型が形づくられていきました。まず、「自分がどんな呪縛を受けてきたか」に気づいた上で、子どもをその呪縛から「逃がしてやること」こそが、父性なのではないかと考えたのです。
父という存在の意義は、自分の父親を真似て子どもに常識を押しつけるためにあるのではなく、子どもと一緒に常識を覆すことにあるのではないか。
父らしく振る舞うことで父になるのではなく、世間で常識と思われている概念に「なんか、変だな」とむしろ子どもと一緒に爆弾を投げること。それができる意思を育むことが、父という存在の意義なのではないか……そう考えたのです。