1968年に発表された「日中国交正常化提言」
そもそも創価学会と中国の具体的な関係は、1968年9月に池田大作が発表した「日中国交正常化提言」というものに起点がある。当時の日本は中国(中華人民共和国)と国交を結んでおらず、台湾の中華民国政府を“正統な中国政府”と位置づけていた。
池田はこの状況を、「大陸・中国の7億1000万民衆をまるで存在しないかのごとく無視した観念論にすぎない」と言って批判。日本は日中国交正常化に向けて動くべきであると述べ、「その困難な問題を成し遂げていくのは、公明党以外に断じてない」と語ったのである。
これをうけて公明党では、当時の中央執行委員長だった竹入義勝(衆議院議員)らが具体的に中国政府との接触を図って動き始め、1972年の日中国交正常化に向けて、日本政府や自民党のサポート役を果たしていくこととなる。
なぜ池田はこのとき、日中国交正常化を訴えたのか。『新・人間革命』など、創価学会の刊行物によると池田は“平和主義者”として、日本が第2次世界大戦で中国を侵略したことについてずっと胸を痛めており、「一人の日本人として、また、仏法者として、中国、そして、アジアの人びとの幸福と平和のために、一身をなげうつ覚悟」(『新・人間革命』より)で、日中国交正常化を提言したのだ、ということになっている。
ただ、この1960年代末というのは、実は創価学会にとっての大きな転換期であった。
創価学会が公明党を作った理由は「国家権力を統制下に置く」ため
そもそもだが、創価学会とは何を目的、理想としている団体で、何のために公明党という政治部門を持っているのであろうか。
公明党の設立は1964年のことだが、創価学会はそれ以前から「創価学会系無所属」などと称し、会員(信者)たちを各種の選挙に立候補させていた。池田大作の師にして、2代目の創価学会会長だった戸田城聖は、会の政界進出の意味について、こんなことを言っている。
「われらが政治に関心を持つゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」(創価学会機関誌『大白蓮華』1956年8月号より)
詳しい宗教的な説明は省くが、「広宣流布」とは簡単に言えば、「全世界の人類に布教をする」ということで、「国立戒壇の建立」とは、「影響下に置いた国家権力に、自分たちの宗教施設を建てさせること」を意味する。
つまり創価学会とはもともと、「世界中の人を信者にし、国家権力すら自分たちの統制下に置く」ことを目標に動いていた宗教団体で、政界への進出も、そのための手段だったのである。