しかし、特に1960年代中盤以降、公明党が政界に具体的な勢力を形成し始めると、さすがに社会のあちこちから「公明党の存在は政教分離違反なのではないか」という批判の声が上がり始める。

特に大きかったのは、政治評論家の藤原弘達が1969年に出版した批判本『創価学会を斬る』に対し、創価学会が大がかりな出版妨害を行った「言論出版妨害事件」だった。創価学会は世間からの猛バッシングを受け、池田は1970年に、謝罪に追い込まれた。

このような流れのなかで、創価学会と公明党は従来の「広宣流布」「国立戒壇の建立」などといった目標を掲げなくなる。その代わりに出てきたものこそが、現在の公明党が掲げる「平和と福祉の党」なる路線なのである。

そして創価学会の“親中路線”とは、まさにこの方針転換の真っ最中に出てきた姿勢であることに注目しなければならない。

日中国交正常化を加速させた「竹入メモ」

一方で中国の側にも、このころ日本との関係改善を図るべき理由が存在していた。1953年のスターリン死去以降、毛沢東はソ連との対立を始め、この「中ソ対立」は1969年のダマンスキー島事件などといった、実際の軍事衝突にまで発展する。

かつ、1966年から始まった文化大革命は、中国に対するマイナスイメージを世界に広め、国際的な孤立をすら招こうとしていた。当時、中国の外交部門の責任者だった周恩来は、こうした状況の打破のため、西側諸国との融和路線に向けて動き出す。

1972年のアメリカ大統領、リチャード・ニクソンの中国訪問はその代表的成果で、周恩来は日本に対しても、具体的な親中派勢力の調査、取り込みに向けて動き始めていた。

このような周の意を受けた対日工作員、孫平化(後の中日友好協会会長)の目にとまった組織こそが創価学会であり、周恩来と池田大作は、このようなお互いの切迫した事情の末、1970年前後に“手を結ぶ”こととなったのではないか。

周恩来の旧居(2018年9月19日)
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池田の日中国交正常化提言をうけて数度にわたって訪中した公明党の竹入義勝に、周恩来は直々に面会。日中国交正常化が行われるのであれば、中国政府は第2次世界大戦に関する賠償金の請求はしないこと、日米安保や尖閣諸島の問題などはひとまず棚上げにしてもいいことなどといった、具体的な提案を持ちかけた。

当時の公明党は野党であり、竹入は日本政府の特使でも何でもなかった。しかし、竹入は結果として“特使のような存在”になってしまい、彼が日本政府にもたらした「竹入メモ」によって首相・田中角栄は動き、1972年に日中国交正常化が成立する。

一般にはなじみのない話だろうが、こうした“事実”があることをもって、創価学会内部には「日中国交正常化は池田大作先生の功績である」という史観が存在している。

そしてその“事実”こそが、当時猛批判を浴びていた「政教一致路線」から「平和と福祉」の方向へ創価学会の性格を転換させ、組織全体の生き残りに道筋を付けた、「世界の平和主義者・池田大作先生」の第一歩だったのである。