気がついたら「山陰人」になっていた

1年間で学士資格を取得。この頃には別の道に行こうという気持ちは薄れていた。そして、2001年4月から2年間、人事交流制度により、岡山大学病院に派遣されている。

「人事交流制度が始まったときに、これだ、行きたいと手を挙げました。施設的な面では岡大病院は建物も装置も古い。ただ、個人のスペック(能力)は高かった。お前、こんなことも知らないのかという様な厳しい言葉も掛けられました。その言葉に発奮して勉強もしました。休みの日もずっと、なんでこうなるんだろうって、仕事のことをよく考えてましたね」

生まれ故郷である岡山に身を置いてみると、自分が米子――山陰に馴染んでいたことに気がついた。

「岡山って気候的に良くて、災害が少ない。そのせいか、みんなで助け合おうという感じが少ない。個を重視する県民性というんでしょうか。病院でも会議や飲み会などでも、みんなが激しく言い合う。確かに切磋琢磨なんですけれど、ちょっと怖いなぁって。なんでもっと優しい言葉で接してくれないんだろうって思ったんです」

たまに米子に戻ると、帰ってきたとほっとしている自分がいた。

「岡大病院で良かったのは、新人みたいに扱ってくれたんです。5年間も働いているのに、という悔しい思いもあったんですが、逆に分からないことを聞きやすかった。今まで知ったふりをしていたことを素直に聞くことができた。その意味では知識がすごくつきました」

2003年、山下はとりだい病院に戻った。29才のときだった。

「技術者」から「医療人」へ

撮影=中村治

この年、とりだい病院は、国内初の超強力な磁石マグネットを使用した臨床用3T(テスラ)MRIを導入した。

「国内1号機です。院内はもちろん、メーカー、全国の技師から注目されます。自分が責任をもってやるぞと。分からないときは、メーカー(の担当者)に電話して、分かるまで聞きました。彼らにとっては初歩的な質問だったかもしれない。

でも、分からないことはずんずん聞く。そこでぼくは、根っこの岡山人の面が出ましたね。これを撮ってくれという(医師から)の指示通りならば、マニュアルを見ればできます。でも、本当の理解は違うんです」

機器を本当の意味で操れるようになるうちに、患者を見る余裕も出てきた。

「最初は技術者として、いかにMRIでいい画像を撮るか、でした。つまり医師が診断に迷わない画像です。若い頃は、バシッと撮れたときに、よしって思っていた。でもそれは患者さんにとっていい結果ではない場合もある。もちろん(画像診断により)早期発見につながることで医療には貢献できているはずです。でも、それだけでいいのだろうかと思うようになりました」

MRIの被験者は、周囲を無機質な機器に囲まれ、巨大な音の中、30分ほど静止しなければならない。事情が飲み込めない、子どもにとっては苦痛である。

「小学校の低学年の子どもは、いきなりMRIを撮ったら、怖いから普通は泣きじゃくります。でも、小さい頃から経過観察のためにMRIを受け続けている子は頑張るんです。自分が泣いたりしたら、お母さんたち家族に迷惑が掛かることを知っているから」

検査が終わった後、泣くまいと涙を浮かべている子どもの顔を見ると、胸が締め付けられた。

「終わった後、あーよく頑張ったね。お母さん、褒めてあげてくださいねとかはもちろん言います。でもそれが果たしていいことかどうかは分からない。事務的に対応したほうがいいのか。いつも悩んでいます」

ふと、山下は自分が逃げていた“医療人”の顔になれたのではないかと思うことがある。まだまだ未熟ですけれどね、と申し訳なさそうに付け加えた。