応仁の乱の最中に起こった事件

京都の南の郊外にある醍醐寺は、平安時代に開創された真言宗醍醐寺派の総本山である。その醍醐寺で、応仁の乱の真っただ中の文明元年(1469)10月に事件は起きた。

紙本著色真如堂縁起・下巻(部分)(写真=掃部助久国/真正極楽寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

その頃、醍醐寺の周辺はまだ田畑に囲まれ、多くの村人たちがそこを耕作して、収穫の一部を醍醐寺に年貢として納めていた。醍醐寺は、その門前の集落のことを「御境内」とよんで、そこから上がる収益を重要な財源としていた。ところが、ある日、そこの村人たちが混乱した世情に乗じて、とんでもないことをいい出した。門前のすべての田地の年貢を半済はんぜいにする、というのだ。

「半済」とは、荘園領主への年貢の納入を半分だけにすること。残りの半分は、その土地を実効支配している者の手に委ねられた。有名なのは、高校の日本史教科書にも載っている、室町幕府が出した「半済令」だろう。室町幕府は南北朝の内戦中に味方の武士を増やすため、幕府側についた者には土地の年貢の半分をあたえるという出血大サービスの超法規措置を命じたのである。

この半済令というお墨付きを利用して、各地の武士が力をつけ、かわりに収入の半分を失った寺社や公家が窮迫するという事態が生まれることになった(ただし、半済令には「半分」以上の年貢を侵犯することを禁じる意味合いもあり、一方で武士たちによるむやみやたらな年貢の侵食を阻止する側面もあった)。

しかし、今回は武士ではなく村人たちが「半済」を主張しはじめたのである。しかも、べつにこのときは室町幕府から半済令が出された形跡はない。「半済」というと聞こえはいいが、彼らは内戦下の混乱を利用して、事実上の年貢半減要求を醍醐寺に突きつけたのである。しかも、彼らはこの要求を貫徹するため実力行使に出て、寺に対して様々な「狼藉ろうぜき」(暴力行為)まで行っていたらしい。

僧侶たちの恐るべき“最終兵器”

お坊さんやお公家さんというと、質実剛健なサムライたちとちがって軟弱で、こんな事態が起きたら、オロオロするばかりで、てんで頼りにならない、というイメージが読者の方々にはあるかも知れない。しかし、このときの醍醐寺はビックリするほど毅然としている。

まず醍醐寺の僧侶たちは、この事態を放置すれば「一寺の滅亡」であると一歩も引かず、全山あげて村人たちに対する徹底弾圧に乗り出した。そのときの様子は、みな僧侶であるにもかかわらず「甲冑かっちゅう」や「弓矢」を帯びて、応戦に及ぶという過激なものだった。一方、対する村人たちも決して引き下がらず、門前は収拾のつかない大混乱に陥った。

やがて膠着こうちゃく状態を脱するため醍醐寺は、こういうときの「旧例」として、ついに恐るべき“最終兵器”の使用に踏み切ることになる。