時は、文明元年10月10日。僧侶たちは帳から執金剛神像を引っ張り出すと、それを本堂の内陣、東護摩壇に安置して、そのまえで数日にわたり20人がかりで千反陀羅尼と不断陀羅尼という呪文を唱えた。さらにその後は神像を外陣に再安置して、再度、毎日、千反陀羅尼を唱えたのだった。
執金剛神とは、釈迦に従って仏法を守護する守り神。その姿は、仁王像と同じく憤怒の形相で、甲冑を帯び金剛杵という武器を掲げる厳めしい武人の出で立ちをしている。
ふだんは寺内の奥深くに安置されているその像を引っ張り出し、20人もの僧侶たちが堂のなかで濛々と護摩の煙を焚き、揺らめく炎のまえで呪いの文言をひたすらに唱え続けたのである。そのさまは、おそらくこの世のものとは思えない鬼気迫る情景であったにちがいない。
「仏罰ここに報い来たれり!」次々と命を落とす村民……
やがて、その効果はてきめんとなって表れた。まず首謀者であった村人数人はすぐに捕らえられ、寺の僧侶たちによって呆気なく処刑される。仏罰ここに報い来たれり! かくて事件は落着したかに思えたのだが、話はまだここでは終わらない。
その後、他の「御境内」の村人たちにも「病死」、「病悩」(重病)、「餓死」、「頓死」(原因不明の急死)という悲惨な運命が待ち受けていた。年内のうちに村内の数えきれない人々が不可思議な理由で次々と命を落としていったのである。
その災厄は人間にとどまらず、果ては彼らが飼育していた牛馬や、家中の下人(使用人)にいたるまでが「頓滅」するという始末。わずかな期間に、決して広くはない村のあちこちで、醍醐寺に反抗した人たちや無関係者が僧侶たちの呪いをうけて連続不審死を遂げる。これこそが醍醐寺が秘蔵していた“最終兵器”だったのである。
そんなバカな話があるか。と思われるだろうが、これは真実なのである。いや、少なくとも、当時の人々はこれを「真実」と考えた。
こともあろうに醍醐天皇も祈願所とした霊験あらたかな大寺院に刃を向けた愚かな村人どもは、当然の報いとして、一村滅亡の災厄に見舞われることになったのである。その後、仏罰の霊験が証明され、醍醐寺に盾突く村人があらかた死に絶えたことを確認した翌文明2年5月3日、執金剛神像は元の場所に戻され、ようやく呪詛の儀式は終結した。
「これは本尊の威力であり、すべては皆の丹精込めた祈りの結果に他ならない。尊いこと極まりなく、崇敬してもしたりないほどのありがたさである」
一連の出来事を書き残した醍醐寺の僧侶は、右のような誇らしげな言葉でその文書を結んでいる(「三宝院文書」、『大日本史料』八編三巻所収)。