特別な「何者か」になろうとしなくていい

「基本、人は変われない」と言いましたが、ある種その逆を行くものとして、特に若い世代で人生しんどそうな人は、壮大な「何者か」を目指そうとしすぎているように感じます。

「好きなことで稼いで成功しなきゃ」「死ぬほど熱狂して取り組まなきゃ」「平凡な自分は生きる価値がない」みたいに思いすぎているというか。だから理想と現実のギャップで苦しむ。

これも要するに、「お金とか見栄をあきらめられない」の中に含まれるんですよね。無自覚なのかもしれないけど、結局そこには世間に評価されたい、いい暮らしがしたいみたいなのがあるわけで(もちろん、お金と見栄に生きたい人は、それでOKなんですけど)。

でも、そんな大金や世間的評価を得られるのは、さっきも言いましたが、ランキングバトルを勝ち抜いた者や生まれながらの圧倒的実力者だけ。厳しい現実ですがその他大勢にはハードルがかなり高いわけです。

足るを知る「餃子ニート」の人生は豊か

ただ、僕は思うんですけど、「何者か」を目指して自分の能力じゃできないものに手を出して、わざわざ疲弊しにいかなくても、その他大勢的な人生でほどほどに楽しむのでよくないですかね? 僕ならむしろそっちがいい。

歴史を振り返れば、表舞台に登場するのは権力者や有名人の話ばかりだけど、その陰には名もなき民衆がいっぱいいます。彼らは別に高望みはしない。足ることを知って、自分の階級の中でそれなりの楽しみを見つけて毎日を生きていたはずです。

ここでも部屋と家具のたとえをまた出しますが、自分のキャパが4畳半分しかないなら、10畳になることを目指すんじゃなくて、4畳半のキャパに合わせた楽しみ方を見つけるほうが、人生は豊かだと思うのです。

たとえば、あなたがアニメ好きで、周囲の友人と比べて格段にアニメに詳しかったとします。

とはいえ、その「アニメ好き」という個性を活かしたからといって、いきなりアニメ解説のYouTuberになって稼いだり、アニメのまとめサイト運営で儲けようとしても大概の人はうまくいきません。ネットの有象無象の中ではたかが知れているレベルだし、あなたよりアニメに詳しい人なんて腐るほどいて、埋もれてしまうから。広い世界でのトップ=「何者か」になるのは難易度が高いわけです。

でも、もし本当にただただアニメが好きなら、それで成功して稼げなかったとしても、無意識のうちにアニメを考察しちゃってたり、まとめサイト作っちゃったりすると思うんですよね。

で、それこそが「何者か」になろうとしたり、「何者か」で居続けようとすることよりも、豊かな状態だと思うわけです。

実際、僕に奢りに来た人の中でも「餃子を焼くことが無上の喜び」っていう女性がいて「餃子の店を出してそれで稼がなきゃいけないかな……」と悩んでたんですけど、「餃子で稼ごうと思わずに、ラクなバイトで生活費と餃子の材料費稼いで、家で好きなだけ餃子焼けばよくね?」って言ったら、スッキリした顔をして帰っていきました。

いまは餃子ニートになって、生活に困らない程度に稼いで幸せに餃子に狂ってるみたいです。

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