昔の人は「月食」をどのように捉えていたのか
次に、「月の供養塔(墓)」の話をしたい。実は、月の供養塔は全国のあちこちにある。それが、月待供養塔というものだ。「月待」と呼ばれる講中(信仰を同じにする結社、集団)が建立した。今でも昔ながらの集落を歩いていると、路傍に月待供養塔が立っているのを見かけることがある。
月待供養塔の特徴は、「十三夜」「二十三夜」など、「○○夜」といった碑文が刻まれている点にある。先の小河内ダム湖畔でも、「二十三夜(下弦の月)塔」を見つけることができた。
月待供養(信仰)とは月の出を待ちながら、お供えをし、歌や舞を奉納したり、念仏を唱えたりする年中行事のこと。月待の行事は、社寺のほか、山の頂など月が見える眺望の良い場所で営まれた。月待講は江戸時代の中期以降、各地につくられていく。
月の満ち欠けに畏怖の念を抱き、信仰や供養の対象に
月待の考え方もまた、日食供養と似ている。月の満ち欠けを自然に対する畏怖ととらえ、信仰や供養の対象としたのだ。
旧暦では毎月1日が新月となり、三日月、上弦の月を経て15日が満月に当たる。以降は再び欠けていく。十六夜、下弦の月、そして月末にかけて再び新月になっていく。特に旧暦9月13日に行う十三夜、旧暦8月15日に行う十五夜、旧暦23日の二十三夜などに集う月待講が有名だ。講の記念として供養塔が立てられた。
月待は仏教や神道とも混じり合い宗教色を強めていく。例えば月齢に対応する仏が祀られるようになる。二十三夜の仏は勢至菩薩、二十六夜は愛染明王、といったふうに。
月待が仏教行事として広がっていくにしたがって、禁忌なるものも生まれた。月待の夜には夫婦の営みが禁忌とされた。これに反すると、奇形児が生まれるという俗信も広がったという。
月待は明治期までは続けられていたが、現在ではほぼ姿を消している。唯一、十五夜(中秋の名月)だけは、今でも一般に受け継がれている習わしだろう。満月に見立てた団子と魔除けのススキを供え、観月会に参加した人も多いのではないだろうか。
月待に類似したものでは太陽を信仰の対象にして供養する「日待」、庚申の日の夜に徹夜をして念仏などを唱える「庚申待」などが存在する。日待は夜を徹して日の出を待ち、朝日を拝する行事である。
東京都大田区馬込の万福寺では高さ4mにもなる立派な日待供養塔が立っている。そこの案内板には大正時代までは馬込地区では日待供養が実施されていたと記されている。
コロナ禍にあって東京の繁華街では多くのネオンが消えた。暗くて不安な夜こそ、ひとり空を見上げ、静かに月を眺め、謙虚に手を合わせてはいかがだろう。明日への希望が見えてくるかもしれない。