人々は日食を凶事の前兆として畏れていた

そのひとつに、旧原村の恵日山門覚寺に置かれていた「日食供養塔」がある。門覚寺はすでに廃寺になっており、石碑だけが移された。

小河内ダム湖畔にある日食供養塔(撮影=鵜飼秀徳)
小河内ダム湖畔にある日食供養塔(撮影=鵜飼秀徳)

門覚寺の日食供養塔は、国内では他に類を見ないものだ。高さ118cmのどっしりとした石塚である。大きく「日食供養塔」と刻まれ、上部に「○(太陽、もしくは金環食の円相)」が描かれている。

しかし、日食を供養する、とはいったいどういうことか。百歩譲ったとしても、せいぜい「太陽供養」ではなかろうか。

日食はその昔、凶事の前兆として人々から畏れられていた。『古事記』や『日本書紀』には、太陽神天照大神にまつわる物語が記されている。

暴れん坊の須佐之男命が理不尽な暴挙をはたらいた時、姉の天照大神は嘆き悲しみ、怒り、岩戸に引きこもってしまった。太陽神が隠れたことで、世界は暗闇に包まれた。神々は怯え、さまざまな災禍が押し寄せてきた。神々は知恵を結集して、岩戸から天照大神を誘き出すことに成功すると、たちまち辺りは陽の光に満たされた——。

この「天照大神の岩戸隠れ」の物語は、神秘的な皆既日食の現象を神話として仕立てたものだと考えられる。

日食の記録をさかのぼれば、最古のものが『日本書紀』に残っている。

《推古天皇三十六年三月戊申 日蝕(は)え尽きたり》

「蝕尽きたり」とは「皆既日食となった」、という意味である。この時の日食は皆既に近い93%の食分だったとされている。推古天皇はくしくも日食の4日前に病に伏し、日食の7日後に崩御した。

「太陽が欠けるのは、お天道さまが降りかかる病や災難の身代わりに」

古事記や日本書紀の記述にもあるように、日食は人知では推し量ることのできない奇妙な現象であった。われわれの命の源である太陽が突如として欠けていくのだから、庶民の多くが、日食にさまざまな凶兆を重ねたとしても無理もない。

「太陽が欠けるのは、お天道さまがわれわれに降りかかる病や災難の身代わりになってくれているから」

そんな日食を擬人化した民俗信仰も生まれた。

太陽が凶事の犠牲になってくれている。そんな理屈が成立したからこそ、日食は「供養の範疇」に入った。日食供養には、太陽を悼み、太陽の恩恵に感謝する意味が込められているのだ。

では、奥多摩湖畔の日食供養塔が建てられた当時、この地域では本当に日食が見られたのだろうか。

石碑には「1799(寛政11)年建立、己未(つちのとひつじ)十一月」とある。220年以上前の江戸時代のことだ。奥多摩地域での日食の記録を調べると、実は同年には日食は観測されていないことがわかった。

この年以前の日食を20年ほどさかのぼってみた。すると1786(天明6)年1月30日、当地域でほぼ金環日食に近い状態(食分99%)のものが観測されている。そのわずか3年後の1789(寛政元)年、10年後の1796(寛政8)年、12年後の1798(寛政10)年にも部分日食があった。供養塔が立てられる前の数年間には、一定の頻度で日食が観測されていたようだ。

江戸庶民は太陽をきちんと供養しなければ、こんにちのコロナ禍のような疫病の流行や天変地異を招いてしまうのでは、と恐れたのかもしれない。

ちなみに、供養塔ができた翌年1800(寛政12)年4月1日には奥多摩地域では金環日食に近い部分日食(食分93%)が観測されている。奥多摩の人々はこの供養塔の前で必死に手を合わせ、凶事が起きぬことを願ったに違いない。

奥多摩町にはかつて、21の寺院と33の神社があり、信仰に篤い風土であった。路傍には地蔵や神像があちこちに置かれていたとされる。日食供養塔を生んだ背景に、当地の豊かな精神文化があったことを言い添えておかねばならないだろう。