コロナ禍による新しい生活様式で、人と会う機会が激減。漠然とした不安や孤独を抱える人は多いのではないでしょうか。しかし哲学者の小川仁志さんは、「コロナ禍であろうと、そうでなかろうと、基本的に人間が心を病む状況はあまり変わらない」と言います――。

※本稿は、小川仁志『幸福論3.0 価値観衝突時代の生き方を考える』(方丈社)の一部を再編集したものです。

屋上で携帯電話を使用する女性
写真=iStock.com/Sushiman
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不安になるのは“自由”があるから

新型コロナウイルスで不安な日々を過ごしている人が多いと思います。人間を苦しめるものの一つが不安です。これは睡眠不足だとか、疲れだとか、あるいは身体の痛みとかとはまったく性質の異なる苦しみです。なぜなら、純粋に心の苦しみだからです。

でも、身体の痛みと同じで、それがある限り苦しまないといけないのです。だから安らかに日常を過ごすためには、不安を取り除く必要があります。

十九世紀のデンマークの哲学者キルケゴールは、彼自身、常に不安を抱いていたのでしょう。著書『不安の概念』には、そんなキルケゴールが不安とは何かを分析し、かつ自分自身がいかにして不安を克服していったかがつづられています。

哲学者キルケゴールに学ぶ「不安」の正体

まず、そもそも不安とは何か? 一言でいうと何かを恐れることです。ただ、キルケゴールにいわせると、それは恐怖とは異なります。なぜなら、恐怖とは恐れる対象がはっきりしているからです。他方、不安の場合は、対象が分からないのです。皆さんはどうですか?

原因がはっきりしていることもあるでしょうが、その場合はどちらかというと悩みであったり、まさに恐怖であったりするのではないでしょうか。

お金がないのは不安かもしれませんが、それは悩みともいえます。治安が悪ければ、襲われる不安がありますが、それは恐怖でもあります。

そうした状態とは違って、ただ漠然と不安だということもありますよね。これが不安の本来の姿だというわけです。

キルケゴールはこれを「自由のめまい」と表現します。つまり、人間には自由があるわけですが、それゆえに不安になるということです。

たとえば、私も経験がありますが、未知の世界に足を踏み入れる自由がある場合、不安を感じるのではないでしょうか。選択の余地がないなら「どうしよう」と思うことすらないわけですから。

その意味でキルケゴールは、恐怖と異なり、不安は人間しか持ちえないものだといいます。

動物は物事を恐れますが、けっして不安を抱くことはありません。これは人間という存在が、動物性と神性とを総合する「精神」を持ち備えているからだそうです。言い換えると、人間は人間だからこそ不安をその本質としているのです。