中年男性のお金はイケメンホストに流れる

おそらく、かような「自分だけはモテている」と思い込む男と女の事件などは、密集地帯の江戸では山ほどあったのでしょう。そしてそれらをスケッチした戯作者たちの作品が、落語家たちによって面白おかしく語られ、また語り継がれることによって洗練されて、令和の今でも残っているのがこの「文違い」なのです。

何が言いたいのかと言うと、ここからは幾分、牽強付会けんきょうふかい(自分のいいように解釈する)的ではありますが、現代のわれわれの目線を座標軸にして見つめ直すと、この落語は、「われわれの子孫たちもきっとわれわれと同じしくじりをやるだろう」というご先祖様からの予言ではないかと考えられないでしょうか?

いや、もっというとこれは「子孫たちよ、俺たち先祖は男と女でこんな失敗をしてきちまったぞ。お前ら、気をつけろよ」という時空を超えたメッセージではないか、と。

実際、キャバ嬢に入れ込んだ中年男性から搾り取ったお金は、イケメンホストとの遊興費に充てられているというのは昨今よくある事例でありますもの。

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品とはカネで物事を解決しないこと

「カネで結びついた男と女」はかくも悲しい結末が待っているのです。

「紀州のドンファン」がその財産を築いた働きぶりなどはお見事で、立身出世物語としては十分過ぎるほど読み応えはあります。

が、やはり「美女4000人を抱いた」と公言するのは下品なのではないかと。わが師匠・談志は「欲望の解決をカネで行うのを下品という。つまり品とはカネで物事を解決しようとしないこと」とずばり定義していました。「俺は乱暴なだけで下品ではない」とも言っていました。そして「落語は江戸っ子の品を語るものだ」とも明言していました。たしかに「三方一両損」や「井戸の茶碗」をはじめ、「意図しないで手に入るようなカネ」を蛇蝎だかつのごとく嫌う江戸っ子たちが主人公の落語がたくさんあります。

この事件が報道された時、我が家では高3の次男坊から「パパ、殺されるような財産がなくてよかったな」としみじみ言われました(笑)。まさにその通りであります。