「あんた大学出ているんでしょ」

私は、その週は夜勤が主だったので、幸助君の作業スケジュールをまったく知らされていなかった。北村は作業の具体的な内容をわざと彼へ伝えなかったようだ。

「2階のトイレを清掃しといて」

それだけ指示して去ってしまう。入社してまだ数日の慣れない職員には無理な相談だ。トイレ洗浄剤、消毒剤、消臭剤、替えのトイレットペーパー、雑巾、モップ、鏡用の布巾など用具の置き場所がまちまちなのだ。

トイレ掃除一つとっても煩雑な決まりごとがある。そして彼の作業が停滞すると、北村はこれ見よがしに大声で怒鳴った。中間報告の際、ほかの職員の前でも自らの威厳を示すように怒鳴った。

「なぜ、時間がかかった上に最後までできなかったの。結局、前田さんが全部やり直したのよ。前田さんのやるところをちゃんと見ていたの?」

「いいえ、指示がなかったので」と幸助君。「これ常識だと思いますけど。あんた大学出ているんでしょ。それくらい自分で考えなさいよ」

この「常識だと思いますけど」は、彼女の口癖だった。こんな調子で彼は執拗にいたぶられたのだ。

これは彼のための愛のムチなどではないことを誰もが知っている。ただ、誰一人彼女に意見する職員はいなかった。自分に火の粉がふりかかることを恐れたからだ。情けないが私もその一人だ。

この施設を去るときは、北村に言いたかったことをぶちまけてやるぞ、と心の中で叫ぶ。

「僕、無理な気がします」

私は経営していた会社を畳み、この仕事に就いた。

会社を清算する際に社屋やそのほかの不動産を処分し、借金の返済に充てたが完済できず、今も分割で払い続けている。年金受給までまだ数年あり、体が続く限り働かなくてはならない。今はまだここを辞めるわけにはいかない。

「真山さん、どうしたら北村さんとうまくやれますかね」

入社4日目に彼から初めて事情を聴いてそのことを知った。彼は県外のスーパーを辞めて帰ってきたUターン組だった。介護業界もここが初めてだったらしい。

「今までも彼女から目をつけられて辞めた人間、ごまんといるからね」

言いながら自分でも答えになっていないと思った。1日で辞めたパートもいた。

「僕、無理な気がします」

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私も、もう彼は無理だろうと思った。いい奴なのだが、北村のいじめに耐え抜くには、線が細すぎると思った。

「まだ若いんだから、もっといい施設を当たってみたら? 君なら大丈夫だよ」
「でも介護業界、北村さんみたいな人がどこの施設にもいるそうですね。最近ネットで調べてわかりました」
「僕もここしか知らないから、はっきりとしたことは言えないけど、多かれ少なかれ、妙な上司はいるみたいだよ。友人に介護福祉士の男がいるけど、彼の場合、5回職場を変わっているからね」
「どんな理由で、ですか」
「やはり北村みたいな上司とぶつかったり、その施設があまりにもいい加減な体質だったりで」