猛反対を押し切って世界初の「美容液」を発売

時代は1960年代半ば、化粧品メーカーは資生堂、小林コーセー、マックスファクター、カネボウなどが並び、商品開発を競い合う。化粧品も、化粧水、乳液、下地クリーム、ファンデーション……と細分化していった。

「上司に腹が立つときは2頭身時代の上司を描くのがおススメ」と小林さん。不思議と怒りが静まるという。(撮影=遠藤素子)

小林がマーケティング部へ異動したのは30歳のとき。「美容研究室」が設けられ、たった一人の美容研究者として抜擢された。マーケティング、商品開発、撮影、プロモーションまで美容に関するあらゆることを一人でこなすようになる。

「私が作りたい商品は女性が望んでいるものでした。働く女性たちも増えてきた頃で、私も同じ女性としてこういうものを作ったら喜ばれるだろうとわかります。カバー力があるファンデーションとか、うるおいがある口紅とか、自分が欲しいと思うものを考えられるのが楽しくて」と小林は振り返る。

働く女性は忙しく、わずかな時間も惜しいもの。一本で効果を実感できるものがあればと開発したのが、世界初の「美容液」だった。だが、社内では「そんなものを出したら他の商品が売れなくなってしまう」と猛反対にあった。しかも5000円と当時としては高価だったこともあり、絶対に売れないといわれる。それでも押し切って発売すると、爆発的に売れた。続いて「パウダーファンデーション」など、数々のヒット商品を生み出していった。

現場は女性だが本社は男性だらけ

コーセーでは初のサマーキャンペーンを展開。小林は日焼けして溌溂としたメイクが似合うモデルを起用して、〈クッキールック〉のメイクを提案し、キャンペーンは大成功だった。だが、そうした活躍の陰には、“男社会”の壁も立ちはだかっていたと洩らす。

「化粧品業界も男社会です。現場には大勢女性がいるけれど、本社にいる管理職はほとんど男性なので、会議などに出ると紅一点。そういう時代でした。やりたいことを反対されても押し通すには、仕事で結果を出すしかありません。私は『生意気なヤツ』といわれていたけれど、結果を出しているからしょうがないと思われていたのでしょう(笑)」

自分で心がけていたのは、できるだけ低い声で冷静に話すこと。服装やメイクも、ベージュやブラウン系の色合いでまとめる。男性陣に仲間だと認識されるための工夫をしてきた。

外見は大切な自己表現だと、小林は考える。

「人前で話すときに緊張して上がってしまうのは、自分はどう見えるのかという不安、外見に自信がないこともあります。人は自分の印象をプラスに捉えられると、表情が明るくなり、自信をもって振るまえるようになるもの。メイクでその人の魅力を引き出すことで不安をとりのぞき、ぽんと背中を押してあげることも、私の仕事ですからね」