UWFインターから全日本プロレスヘ

“青天のへきれき”といったら大げさかもしれないが、93年5月、UWFインターナショナルがベイダーとの契約を発表した。

1984(昭和59)年に“第3団体”として誕生したUWFは、従来のプロレスからショー的要素を排除し、打撃技、投げ技、関節技を主体とした格闘技色の強い試合スタイルを模索した運動体で、91年発足のUWFインターナショナルはそのスピンオフ団体だった。

スーパー・ベイダーの新リングネームでUWFインターナショナルのリングに登場したベイダーは、94年8月、高田(現・髙田)延彦を下して『プロレスリング・ワールド・トーナメント』に優勝。“20世紀の鉄人”ルー・テーズの流れを汲むプロレスリング世界ヘビー級王座を獲得した。

アメリカ国内ではWCWからWWEに移籍し、新顔のサプライズとしてスーパーイベント“ロイヤルランブル”でデビュー(96年1月21日=カリフォルニア州フレズノ)。同年の“サマースラム”のメインイベントでショーン・マイケルズが保持するWWE世界ヘビー級王座に挑戦したがフォール負け(8月18日=オハイオ州クリーブランド)。WWEには2年8カ月間在籍したが、ついにいちどもチャンピオンベルトを手にすることはできなかった。

ベイダーは日本のファンがこれらのWWEの試合映像を目にするかどうか、それによって日本での自分の評価が変わってしまうかどうかを気にかけていた。大きな体のわりに性格的にはひじょうに繊細なところがあった。

「三沢は最大級の尊敬に値するレスラー」

WWE退団後は全日本プロレスに活動の場を求め、98年5月、同団体の初の東京ドーム興行に出場、同年、ハンセンとのコンビで『世界最強タッグ決定リーグ戦』にも出場した。ベイダーとハンセンのあいだには、ふたりにしかわからない友情があった。

全日本プロレスに在籍した2年間で三沢光晴、川田利明、小橋健太(現・建太)、田上明、秋山準の“四天王プラス1”とそれぞれシングルマッチで対戦し、三冠ヘビー級王座を通算2回獲得。2000(平成)年6月、三沢グループの全日本プロレス退団――プロレスリング・ノア設立と同時にベイダーも新団体に移籍した。

猪木から闘魂三銃士世代までの新日本プロレス、格闘技スタイルのUWFインターナショナル、馬場と四天王世代の全日本プロレスをリアルタイムで体感したベイダーは、現役生活の最後のチャプターとして三沢のプロレスリング・ノアを選択したのだった。

(ミサワは)日本のプロレス史のなかでまちがいなくベストレスラーだろう。最大級の尊敬に値するレスラー。(中略)
わたしはわたしなりにジャパニーズ・スタイルとはいったいどんなものなのかという定義を持っている。たとえ試合に負けたとしても、自分のなかの闘う姿勢、ハートのいちばん奥の部分を絞り出せば、日本の観客はそれを正当に評価してくれる。それがジャパニーズ・スタイルだ。〔『プロレス入門II』/初出『週刊プロレス』(2002年8月15日号)〕