洪秀全が創設した上帝教は、太平天国の滅亡と共に中国社会からその姿を消した。それは一つの宗教が信徒の内面的な実践に充分な時間を割かずに政治運動化した結果だった。また読書人の太平天国に対する反感はキリスト教への拒否反応となって残り、反キリスト教事件がくり返し発生した。

20世紀に入ると、香港の中国人キリスト教社会から「第二の洪秀全」を自任する孫文が登場し、太平天国を反満革命として評価する動きが始まる。ただし辛亥革命によって太平天国の評価が一気に変わった訳ではなく、1930年代になっても江南では太平天国に対する否定的評価が残った。

現代中国に通じる「他者への不寛容さ」

太平天国がその掲げた理想にもかかわらず、矛盾と混乱に満ちた運動であった。これは新著『太平天国』(岩波新書)で詳述した通りである。

洪秀全は「神はただ一つであり、偶像崇拝は誤りだ」というキリスト教のメッセージから、中国の歴代皇帝は上帝ヤハウエを冒涜する偶像崇拝者であり、清朝を打倒して「いにしえの中国」を回復すべきだという主張を導き出した。

そして太平天国は上帝の庇護のもと、これを信仰する「中国人」の大家族を創り出そうと試みた。また彼らは公有制の実現をうたい、人々は「天父の飯を食う」ことで生活の保障と死後の救済が与えられると説いた。

だが太平天国は、満洲人や漢人の清朝官僚、兵士とその家族を「妖魔」と見なして排撃した。彼らは太平天国の言う「中国人」の範疇には入らなかったのである。

太平天国の「われわれ」意識はヨーロッパとの出会いのなかで発見されたものであったが、同時に客家など辺境の下層移民がもっていた「自分たちこそは正統なる漢人の末裔である」という屈折した自己認識に裏打ちされていた。また彼らが「大同」世界の実現のために実行した政策は強圧的なもので、江南の都市など他地域に住む人々の習慣や考え方に対する包容力を欠いていた。

こうした不寛容さは元をたどればユダヤ・キリスト教思想の影響にたどりつく。抑圧された民の異議申し立ては、しばしば自分たちがかかえた苦難の大きさゆえにエスノセントリズム(自民族中心主義)に陥り、他者の苦悩に対する理解を欠いてしまうからである。

また宣教師の活動を含むヨーロッパの近代が「文明」を自任し、それと異なる他者を「野蛮」とみなして攻撃する側面をもっていたことも影響した。「唯一の神を信じるか」という問いは、それを受け容れない他者に対する暴力を後押ししたのである。

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分権か、権力の独占か

さて太平天国は皇帝の称号を否定し、洪秀全と彼を支える5人の王からなる共同統治体制をしいた。軍師として政治・軍事の権限を任された楊秀清と、主として宗教的な権威として君臨した洪秀全のあいだには一種の分業体制が生まれた。

それは秦の統一以前の封建制度を模範とした太平天国の復古主義が生んだ結果であり、皇帝による専制支配が続いた中国に変化をもたらす可能性をもっていた。占領地の経営のために実施した郷官制度も中央集権的な統治の弊害を改め、新興の地域リーダーに地方行政への参加を促す分権的な側面をもっていた。