一度も沖縄に帰らず、酒の代わりに歌を詠む
飯場暮らしのさ中のことか、あるいは寿町に居着いてからのことか、尋ねても返事はなかったが、ある日、酒が原因で大立ち回りをやって留置場に入れられた。この穏やかそうな老人が、現場の同僚だけでなく、見ず知らずの人まで巻き込んで殴り合いをしたというのだが、俄かには信じられないことだ。
「悪いんです。酒を飲むとクルっと変わるんです。この小さな体でなぜあんな力が出たのか、自分でも不思議です。あれは酒の力なのかもしれません」
身から出た錆のまじった涙をば 拭いて仰げば新春の富士
だが、この出来事は歌を詠むきっかけにもなった。ことぶき共同診療所の女医の勧めでアルコール依存症者を支援するNPO法人、市民の会寿アルクに通うようになった豊里は、同じ女医の勧めで自作の歌を『神奈川新聞』に投稿するようになったのだ。
「そのお医者さんから、あなたはお酒を飲んでいる限り長生きはできない。命が惜しかったら断酒会に入りなさいと言われたのです。断酒会に出て酒をやめて、酒の代わりに歌を詠むようになったのです。あの大酒飲みがこんなに変わったんですから、あのお医者さんは、私にとって神様みたいな人です」
豊里はトヨタの季節工に応募して沖縄を出て以来、一度も沖縄に帰っていないという。両親の逝去は兄が伝えてくれたが、葬式には行かなかった。もはや家族も親戚も死に絶えて知人はひとりもいないというのに、なぜか沖縄に帰ると白い目で見られるような気がして帰れないという。
豊里に自分の人生をどう思っているのかを尋ねた。
「社会の底辺で、どん底の生活をしてきて……でもいまは、最後の砦になるかもしれない場所に落ち着くことができて幸せです。安心。安らかな気持ちです。ここへ来て、本当によかったと思います」
沖縄には一度も帰らなかったというのに、豊里にはこんな入選歌がある。
ふる里に幾年ぶりか旅のごと来て夜を明かす月の浜辺で
※豊里友昌さんは、このインタビューの後に亡くなった。