やどかりは鍵のいらない宿を借り
帳場さんに教わった部屋番号が書かれた引き戸を開くと、老眼鏡をかけた小柄な老人が正面のベッドに腰をかけて待っていた。豊里友昌、昭和13年生まれの78歳である。
入って左手、ベッドの向かい側に置かれた丈の高いテーブルには、鉢植えの観葉植物がいくつか置いてある。鉢植えの周囲には造花のもみじの葉っぱが飾りつけてあって、殺風景なドヤの部屋のにぎやかしになっている。ブックエンドには『世界文学全集』の背表紙。入って右手の白い壁には風景写真のカレンダーが貼ってあり、エメラルドグリーンの海の色が鮮やかだ。
「私は沖縄の出身で、俳句や短歌や川柳をやります。沖縄は空と海はきれいです。時々思い出します」
耳の遠い豊里は声が大きい。こちらも耳元で大声で話さなくては伝わらないから、男ふたりが頬を寄せて怒鳴り合うような恰好になる。鉢植えの観葉植物はガジュマル、クロトン、テーブルヤシなど、いずれも沖縄に自生している植物だという。
豊里の歌はすでに『神奈川新聞』の歌壇に何首も入選しており、住所は寿町のある中区と表示している。
やどかりは鍵のいらない宿を借り 中区 豊里友昌
豊里は、現在の沖縄県うるま市で生まれている。故郷はダムの底に沈んでしまったというから、おそらくうるま市を流れる石川川の上流にある石川ダム周辺だろう。
夢に見し故郷の山変わらねど 里はダム湖の底となりけり
沖縄が返還されるはるか前に、豊里は現在の沖縄県立石川高校を卒業し、小学校時代から習っていた特技の算盤を生かして、那覇の平和通りにあった大越百貨店に就職している。仕事は経理事務である。
1957年に創業した大越百貨店は、沖縄を代表する小売店のひとつであり(70年に沖縄三越に商号変更をし、2014年に閉店)、豊里の言葉を借りれば「大越百貨店は、当時の沖縄の最高の就職先のひとつ」であった。
逃げるように沖縄を出てきた
父親は県庁の役人で読書好き。『万葉集』をよく読んでいたという。
「私がさっぱり意味がわからないと言うと、いまにわかるようになるよーと笑っていました」
経済的にも文化的にも恵まれた生活を送っていたにもかかわらず、豊里は内地に渡りたくて仕方がなかったという。なぜか。
「家庭が面白くなかった。悪かった。同居していた兄が水商売をやっていた兄嫁とうまく行かなくて、酒ばっかり飲むようになって、家の中で喧嘩が絶えなかった。嫌気が差して、逃げるように家を出てしまったのです」
家を出る前、豊里はトヨタ自動車の季節工の募集チラシを目にしていた。プレス工の募集だった。応募して面接を受けにいくと、いとも簡単に内地へ行けることになってしまった。昭和42年、29歳のときである。ちなみに沖縄が返還されたのは1972年、昭和47年のことだ。
「那覇港から船に乗りました。15、6人の集団就職です。お袋と兄貴が見送りに来ました。甲板は人でいっぱいでしたから、私は上着を脱いでこうやって振って別れました」
上着の背景は、壁に貼られたカレンダーの写真のような、沖縄の青い空と海だっただろうか。