「たとえ食えなくても幸せなんだ」

ホームレス歌人のいた冬』によれば、公田の歌にはサルバドール・ダリの絵やジュリエット・グレコの歌に通じていた教養の痕跡が見て取れるという。それは、私が出会った何人かのドヤの住人のプロフィールとは、かけ離れたものだ。同時に三山のプロフィールもまた、寿町の住人たちのそれとは大きな乖離かいりがある。

昭和36年、神奈川県に生まれた三山は県立高校の頂点である湘南高校を卒業して、東京大学経済学部に進学している。卒業後は朝日新聞社に入社し、1998年(平成10年)に退職するまでの13年間を東京本社学芸部、社会部の記者として過ごした。ほぼ同世代である私から見れば、エリートの中のエリートと言っていい経歴だ。そんな三山が、なぜホームレス歌人に興味を抱いたのだろうか。

東京・板橋区内の喫茶店で三山に会った。

「自分自身が食うや食わずの状況に追い込まれて、ホームレスに近づきつつあったからです」

三山が『ホームレス歌人のいた冬』の取材を始めた当時、職安に通う身の上だったことは同書にある記述で知っていた。東大の卒業生が食い詰めることなどあり得ないように思うが、三山はなぜ、そんな事態に追い込まれてしまったのだろうか。

「98年の段階で、2017年におけるノンフィクションライターの状況に関する正確な情報を得られていたら、朝日新聞を退職する勇気は持てなかったでしょうね」

すでに人気稼業ではなくなったかもしれないが、大手の新聞記者は現在でも高給取りだ。それに引きかえ……とは同業者として言いたくないが、たしかに「2017年におけるノンフィクションライターの状況」は厳しい。

深い教養を持ち、おそらくはそれなりの社会的な地位も得ていながらホームレスに転落してしまった公田に、三山は自らの境遇を重ね合わせたのかもしれない。

「取材で出会ったあるボランティアの方が、公田のように短歌を詠んで認められるなんて幸せなことだよと言うのを聞きました。私も、こういう仕事ができる俺は、たとえ食えなくても幸せなんだと自分自身に言い聞かせようとしていた面があります」

書道をする男性の手元
写真=iStock.com/GentleAssassin
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三山は公田に会って、「たとえホームレスでも、自己表現ができることは幸せだ」というひと言を、公田自身の口から直接聞きたかったのだろうか。

こちら側から向こう側に落ちていった人

ところで『ホームレス歌人のいた冬』には、実に気になる場面が登場する。三山が、朝日歌壇の選者で公田の歌を高く評価していた歌人の永田和宏に向かって、読者が公田の歌に共感したのは、彼が自分たちと同じ「こちら側」から、路上という「向こう側」に落ちた人物だからではないのかと質問する場面である(57ページ)。

永田は、「あっち側、こっち側という表現は、僕は嫌ですね」と三山を一喝するのだが、この言葉に続けて、たしかに読者は「外部の同情すべき人物」としてではなく、歌壇というコミュニティーの「身内」(つまり、こちら側の人間)として公田と感情を共有した面があったであろうことを認めている。

正直な三山は、率直にこう言う。

「こちら側から向こう側に落ちていった人の話を聞けば、読者は『明日はわが身か』と思って興味を持つわけです。でも、ずっと底辺にいた人の話には、興味がわかないんですよ」

さらに三山は、こうした構図を私利私欲のために利用するわれわれのような職業は、卑しい職業だという批判を免れることはできない、とも言う。

「私は新聞記者をやめて南米でフリージャーナリストとして暮らしたあと、週刊誌の記者として事件や事故の取材をしていました。週刊誌の記者たちには人の不幸をネタにしている卑しい職業だという自覚がありましたが、新聞記者の多くにはそれがないのです。新聞社をやめた理由のひとつは、そこにありました」

帳場さんが紹介してくれた歌人は、果たしてこちら側と向こう側、どちらに属していた人物であろうか。