「自分は『終わった人』である」と認識する

おそらく多くの人は「一生、仕事をやり続けたい」とは思っていないだろう。あくまでも生活のため、満員電車に揺られて通勤し、無駄な稟議、無駄な会議、無駄な接待などを惰性でこなしているだけ……という人も決して少ないないはずだ。「新入社員のころに抱いていた熱意は、とっくにさめてしまった」「いまさら、会社でなにか新しいことにチャレンジしようという気になれない」など、すっかり枯れてしまった人もいるに違いない。

私は別に、枯れてしまうことを否定したいワケではない。これもまた「衰え」「老い」から逃れることのできない人間が備えた、有り形のひとつなのだから。

あえて極端な解釈をさせてもらうなら、自分の衰えを感じたのであれば、潔く「自分は『終わった人』である」という認識を持つことも、分別をわきまえた大人の作法ではないだろうか。

ウェブメディアの編集者はアスリートに近い

「ウェブメディアの編集」という仕事は、アスリートに近い部分がある。ウェブ編集者は、常に最新のメディア業界動向やネット上のトレンド、テクノロジーの進化を把握しておく必要がある。それらを踏まえて、臨機応変にコンテンツのテイストを変えたり、新たなる手法を生み出したりしつつ、膨大な記事を継続的に出し続けなければならない。激務を乗り切るための「身体能力」をキープするのはもちろんのこと、「柔軟性」「発想力」「状況把握能力」をいつも研ぎ澄ませておくことが極めて重要なのだ。

年を取ると保守的になりがちで、過去の成功体験に引きずられることがままある。それゆえ、自分の衰えをなかなか認められない。そんな、現状にしがみついて老害をまき散らすロートルを横目で見ながら、私は「醜いな」「ぶざまだな」と思っていた。しかしながら、視点を変えておのれの姿を客観的に見たとき、「もしかしたら、自分も周囲の若手からそう見られているのではないか」「このままこの世界にいたら、老害をまき散らしてしまうようになるかもしれない」と考えて、心底ゾッとしたのである。

「自分は『終わった人』である」と受け入れよ、などと言ったそばからいきなり矛盾するようだが、私がセミリタイアを決断したのは、正直なところ、自分が「終わった人」になったと思いたくないからでもあるのだ。ネットニュース編集者として、PRプランナーとして完全に終わってしまう前に、周囲から惜しまれているうちに退場したかった。