日曜日以外の週6日は、筋トレに行く
遅番のパートナーは、20代の栄養士の女性だ。調理自体は調理師がやるが、配膳と片づけの要員は塩原とこの栄養士のふたりしかいない。
「配膳車を押すのは体力がいりますよ。体力がないと綺麗な仕事はできませんね」
79歳といえば、世の中の基準では後期高齢者に括られる年齢だ。孫ほども年の離れた“相棒”と互角に仕事ができるのだろうか。
「厨房の仕事は動き回りますけど、若い人に迷惑をかけたくないから、もう一所懸命ですよ。どこか体が痛かったら動けなくて悲しいと思いますが、私は痛いところがひとつもない。だから、20代の人と一緒に動けるんです。ああしろこうしろなしに、あうんの呼吸でパッパと動けることが楽しくて、年齢なんて忘れちゃいます」
なんと塩原は日曜日以外の週6日、女性専門のフィットネスクラブ、カーブスに通って筋トレをやっているという。身長158センチのスリムな体型。カーブスにはすでに6年間通っている。
「カーブスでは褒められっぱなしです(笑)。同級生はもうみんなリタイアしちゃって、仕事をしているのは私ひとりですよ」
塩原が手を使い、体を使って働き続ける理由は、いったいどこにあるのだろうか。
※衛生上の観点から配膳車に食器を詰める作業は撮影できなかったが、作業の様子を再現してもらった。
家業のブレーキ工場を手伝うため、大学進学を断念
1941年、塩原は千葉県の茂原市で生まれている。下に5人の弟妹がいる。一応、戦前生まれということになるが、防空壕に入ったことを覚えている程度で、身内に戦争の犠牲者はいなかった。高校を出ると文化服装学院に入り、卒業後は家業の手伝いに専念した。
「両親が自動車のブレーキを作る工場を経営していたんです。よく売れたから忙しかったですよ。社員が10人ぐらいいて、お昼ご飯の賄いもやっていました」
弟妹の中には大学に進学する者もいたが、塩原は親の仕事を手伝うために大学への進学は断念した。
「だから、自分の子供たちは大学に行かせて、教育関係の仕事に就かせたかったんです」
塩原の願い通り、3人の子供は全員大学に進学し、全員が教員になった。
結婚相手は、ブレーキの部品を仕入れに来ていた若者だった。両親が見初めて、塩原に結婚を勧めた。
「夫は通信機器なんかの部品を作る会社に勤めていて、75歳まで工場長をやっていました。5年前に亡くなりましたけれど、一所懸命に働く人でね、たくさん遺してくれたんですよ。だからもう、感謝しかないですね。いまでも週に3回はお墓参りしていますから」