「話したいことがある」

2013年2月、森田は村長を引退した村長経験者の1人、小田中から人を介して面会を求められた。そしてある夜、父が営む蕎麦屋で向き合った。村長選出馬の打診だ。

「わかりました」

森田はあっさりOKした。自宅に戻り、妻に「村長選に出るから」と報告すると「あ、そうですか」と、そっけなく返された。一方、思春期にさしかかっていた長男には反発された。

2週間後、森田は新聞社に退職願いを出した。

現職をおろしたい「ミニ田中角栄」の執念

対抗馬となる田村光義は、小田中の後継村長だった和田民次郎がわずか1期4年で辞めた後に無投票で村長に就いた人物だ。役場職員として、森田の父の部下だった時期もある。村外出身者ではあるが、役場のナンバー2である助役まで経験している。昔から迫力や独創性には欠けるものの、お役所仕事をソツなくこなすタイプで、村長になってからの2期8年でも目立った失政はなかった。

ところが、2代前の村長に当たる小田中は田村の3選を体を張ってでも止めようとした。小田中は苗字の通り、「ミニ田中角栄」のような叩き上げのリーダーだ。高校卒業後にトラックの運転手として役場に採用され、不断の努力と人たらしの性格だけで出世を果たし、ついには渡部村政の助役に抜擢された。しかも、村のレジェンド・梶浦の甥っ子という血筋でもあり、農民たちからは一目置かれる存在であった。そして、「渡部おろし」の流れに乗っかり、1989年に無投票で村長に初当選した。

昔を知る村民の間では、小田中のことを「中興の祖」として称える声もある。ところが、小田中は3期目を終えようとしたころ、議会でうっかり不出馬の意向を表明してしまった。退いた後も成仏できず、まさかの政界復帰を果たして村議を2期8年も務めた。

名誉挽回のために森田が必要だった

村議時代の小田中はまるで人が変わったかのように、ネチネチと後任村長の和田を突き上げた。権力に執着するようにもなり、気に障ることがあれば村長に質問状を送りつけた。

また、「平成の大合併」をめぐっては、「独立独歩」を打ち出す村長に対抗して、帯広市との合併を掲げた。小田中は住民投票に持ち込みながらも、自ら率いた合併賛成派はあっけなく敗れた。

2005年、和田がたった1期で村長の座を放り投げた後、農協幹部の後押しで田村が村長に就いた。それでも、小田中は役場時代の「元部下」である田村の仕事ぶりを議会で執拗に追及し続けた。

さらに、4年後の村長選では現職の田村に対抗する候補者を立てようとしたが、ある農協理事を口説くことに失敗してしまう。

もはや「暴走老人」と化した小田中。そんな元村長が名誉挽回を懸けた「3度目の正直」として仕掛けたのが、若き40代の森田の擁立だったというわけだ。それは小田中にとって、文字通り、命がけの勝負となった。

中傷合戦の中、起きた悲劇

2013年6月11日に告示された32年ぶりの選挙戦。村人の多くは現職と新人の対決ではなく、役場と農協という村の二大勢力の代理戦争だととらえた。

むろん、論争らしい論争は行われなかった。田村が「医療費は中学3年生まで無料」と掲げると、森田は「高校3年生まで無料」と訴えるというような醜い争いだった。

また、森田派は「田村は役場にばかりこもって村民の声を聞かない」と批判し、田村派は「森田はどうせ落選しても新聞社に戻れるんだ」などとののしった。

中傷合戦が日に日に熾烈さを増していく中、驚くべき事件が起きた。投票日前日の早朝、森田の後見役だった元村長の小田中の遺体が河川敷で発見されたのだ。

享年78。首吊り自殺だった。