2007年に関西国際空港で、4000万匹近くのトノサマバッタが大発生
明治時代には国益を揺るがしかねない蝗害に、しばしば見舞われている。特に北海道である。バッタとの「戦場跡」が今に残されている。
場所は北海道の中心部、リゾート地トマムにも近い新得町。地元で「バッタ塚」と呼ばれる古墳状の土饅頭が70カ所以上も残されている。このバッタ塚は、2012(平成24)年には町の指定文化財になった。
1880(明治13)年、十勝地方でトノサマバッタが大発生する。当時は屯田兵による北海道開拓の真っ最中であった。「日食のように太陽が陰り」(帯広市史)、蝗害は6年間も継続したという。蝗害は北海道の開拓事業を阻む自然の脅威であった。
明治政府は多額の費用を投じてバッタの駆除に乗り出す。トノサマバッタが成虫になる前に、卵や幼虫の段階で撲滅する作戦である。現在、アフリカや中東でもこの策が取られている。
トノサマバッタは土中に卵を産む。それを掘り起こし、それを1カ所にまとめて盛り上げ、土を被せて塚にした。バッタ塚は土地100坪にたいして、直径約5メートルの塚が1つ造られた。
町が現地に設置した看板によると、1882(明治15)年と1883(明治16)年の2年間で掘り出されたトノサマバッタの卵の容量は1339立方メートル、幼虫で400立方メートルに達したという。バッタの数に換算すると300数十億匹に相当すると言われているから、驚愕の数である。
北海道には比較的近年につくられたバッタ塚もある。鹿追町では1980(昭和55)年6月にハネナガフキバッタが大発生した。この時は陸上自衛隊が出動して駆除に当たった。その数は推定7億匹。鹿追町では駆除された大量のバッタを慰霊し、災害の発生を防ぐ目的で、下鹿追神社境内にバッタ塚(供養塔)を約60万円かけて投じて建立し、祀った。
2007(平成19)年には開港直前の関西国際空港第2期島で、4000万匹近くのトノサマバッタが大発生し、関係者を慌てさせた。人口島という天敵不在の環境が、大発生を促したらしい。6月初旬に一気に増殖。薬剤を散布するなどして、鎮圧にはひと月ほどかかった。航空機にとってバッタの大発生は、視界を遮り、航行に支障をきたすだけではなく、エンジンなどに入れば大惨事にもつながりかねない。
バッタの発生のメカニズムは分かりつつあるが、その制御はいまだに困難である。農業被害だけでなく、交通インフラは麻痺し、人、モノ、カネの流れが途絶える。今回のコロナウイルスでは様々な「想定外」が社会を混乱させ、経済を麻痺させた。政府はバッタ対策を考えているのだろうか。