「黄号」作戦の命運を握るドイツ装甲部隊

というのは、連合軍がオランダ方面に突出すればするほど、その南側面、あるいは後背部が、西進するドイツ軍によって脅かされることになるからだ。リデル=ハートは、こうして生じた両軍の作戦構想の相互作用を「回転ドア」にたとえている。

連合軍が東に向かえば、ドイツ軍が西に進み、両軍の構成する回転ドアが動くのである。

この「黄号」作戦の成否は、集中された装甲部隊が、アルデンヌの森から英仏海峡沿岸諸港まで、作戦的な次元で独立機動できるかに懸かっている。

第一の関門は、アルデンヌの森を抜けた先、自然の防御陣であるムーズ川の町スダンだった。普仏戦争において、1870年にナポレオン3世が、包囲された麾下の軍とともに降伏したところだ。

アルデンヌの森を突破し、ベルギー国境へ

1940年5月10日、「黄号」作戦は発動された。ドイツ軍右翼のB軍集団が、オランダ・ベルギー方面で攻撃を開始する。これはオランダ方面に連合軍の注意をひきつけ、主力を誘引するための陽動だった。

とはいえ、B軍集団は、一部の装甲師団、さらには空挺部隊までも投入していたから、連合軍はそくざに反応し、フランス第七軍がオランダに、イギリス遠征軍がベルギーに向かう。

しかし、ドイツ軍の真の主力である三個の自動車化軍団は、アルデンヌの森に展開していた。

北から第15自動車化軍団、第41自動車化軍団、グデーリアンの第19自動車化軍団である。グデーリアンは、麾下軍団右翼に第2装甲師団、中央に第1装甲師団、左翼に第10装甲師団と「大ドイツ」連隊を配置し、進撃を開始する。

5月10日午前5時35分、第1装甲師団の陣頭に立ったグデーリアンは、ルクセンブルクの国境を越え、午後にはベルギー国境に達した。

「諸快速師団〔装甲師団・自動車化歩兵師団〕が、その数千両の車輛とともに、当初、最先頭の線に配置されている歩兵師団のあいだを抜けて、円滑に前進し、さらに補給と後送を実施できるように、地形困難な山岳地帯とムーズ川を越えて、三本の通路が確保された。この『トロッコ軌道』と称された道は、常に、もしくは当分のところは、快速師団だけが使用するものとされたのである」(ネーリング『ドイツ装甲部隊史』)。

真価を発揮した「委任戦術」

奇襲は成功した。フランス軍は航空捜索により、アルデンヌにドイツ軍の車輛が密集していることを確認していたのだが、B軍集団の攻撃に眩惑された連合軍首脳部は、主攻はオランダと北部ベルギーで、アルデンヌのそれはさしたる脅威ではないと判断したのである。

侵略を受けたベルギーが、この方面に配置したのは、猟兵師団一個と騎兵師団一個を基幹とする弱体な支隊だけだったから、とうていドイツ装甲部隊を拒止できるものではなかった。かくて、アルデンヌの困難な地形で敵を押しとどめるチャンスも、空しく費消されてしまう。