時代に合わせて変貌を遂げてきた総合商社の繊維事業

大手アパレル・メーカーや百貨店が時代に取り残されたのと対照的に、消費者のニーズに合わせて変貌を遂げ、常に存在感を放ってきたのが総合商社だ。

黒木亮『アパレル興亡』(岩波書店)

総合商社のアパレル事業は、日本が焼け跡と瓦礫の山だった終戦直後に早くも復活した。豊島区のグラインダー(切断砥石)メーカーとして出発した三陽商会が、昭和24年に進駐軍から1万着のレインコートを受注し、日本屈指のコート・メーカーになるきっかけを作ったのは三井物産の繊維部門の前身である第一通商だった。

1960~70年代、商社の繊維部門の主な業務は海外からの原料の買い付けで、羊毛や綿花のバイヤーが花形職種だった。その一方、日本製の生地の輸出も利幅が5割程度という儲かる商売だった。見本をスーツケースに詰め、中近東のスーク(市場)にある衣料品店などを一軒一軒回り、生地を売って歩く行商だ。

1980年代に入って、日本がバブル景気に入ると、海外のブランド品がよく売れるようになり、総合商社は「ブランド・ビジネス」を拡大した。エルメス、フェラガモ、クレージュ、ラルフローレンをはじめとする海外の有名ブランドを日本で売り出し、輸入の全量を取り扱って、口銭を稼いだ。また高級毛織物がよく売れたので、日本のアパレル・メーカーの人たちをイタリアなどの生地の見本市に連れて行き、成約した輸入を取り扱い、口銭を稼いだ。

商社の繊維部門で主流になった「プロダクション・ビジネス」

バブル崩壊後、商社の繊維部門では「プロダクション・ビジネス」が主流になった。これは前述のユニクロのケースのように、アパレル・メーカーから商品の生産を請け負う商売だ。商品の仕様書(生地やボタンなども細かく指定される)と数量、納期などをもらい、見積書を作って、先方と交渉する。

例えば、商品を千枚(千着)作るのに生地は何メートル必要で、ボタンは何個だから、全部でコストは1枚1万円、マージンを2割乗せて1万2000円で引き受けますと見積もりを出す。受注すると生地メーカーに電話をして「この生地を何メートル、いついつまでに、鳥取のこの縫製工場に送って下さい」と発注し、ボタン屋にも「何番のボタンを、何月何日までに、何個鳥取の縫製工場に送って下さい」と発注する。現在は、プロダクション・ビジネスが8割程度を占める。

こうした変化により、伝統的に繊維部門に強い伊藤忠商事などは、繊維部門の純利益だけで298億円(2018年度)、330億円(2019年度見通し)と着実に収益を上げている。