アパレル・メーカーの命運を左右する新商品開発力

平成に入ってからの社会の変化は他の産業にとっても同じだが、元々ライフスタイルや流行に左右されるアパレル産業では特に影響が大きかった。アパレル・メーカーは常に新商品を生み出さないと滅んでしまう業種である。ワールドとオンワード樫山が曲がりなりにも業界での地位を維持できているのは、新しい商品(ブランド)を生み出し続けてきたことが大きい。

オンワード樫山が、百貨店の婦人服に面白味がなくなったといわれる平成に入って、20代と30代に的を絞った新ブランド「組曲」(1992年秋冬物)、「五大陸」(同紳士物)、「23区」(1993年秋冬物)を次々と投入し、成功を収めたとき、東京スタイルの高野義雄社長は「うちには新商品を考えられる気のきいた人間はいないのか!? これでオンワードに追いつく日が5年は遠くなった」と悔しがったという。ワールドのほうは、主力ブランドの「アンタイトル」と「タケオキクチ」が好調だ。

努力を怠った面があることは、否定できない

東京スタイルについて言えば、村上ファンドが狙った自己資本比率約9割、現預金・投資有価証券残高1200億円超という内部留保に安住し、本業の不振を財テクで補っていたこと、ならびにワンマン社長の高野義雄氏がまったく後継者を育てていなかったことも会社消滅の原因となった。

一流女優たちをモデルにした「シネマドレス」
一流女優たちをモデルにした「シネマドレス」(画像=国米家已三『誠実 住本保吉六十五年の軌跡』(住本育英会)より)

バブル期とそれ以前に貯め込んだ内部留保に安住し、新商品(新ブランド)の開発力を失っていたのは、レナウン、三陽商会も同様だ。レナウンは、バブル末期に200億円を投じて英国のアクアスキュータムを買収したが、全ての年齢層が買う三陽商会のバーバリーと違って、主に50代以上の層にしか買われず、千葉県習志野市茜浜に250億円をかけて建設した大型物流センターも重荷になった。三陽商会は、ドル箱のバーバリーに45年間頼り切って、商品開発力を失っていたことが敗因となった。

アパレル・メーカーの凋落は、総合商社のように常に変化することを刷り込まれたDNAを持たない会社の悲劇という部分もあるが、努力を怠った面があることは否定できないだろう。

東京スタイルの創業者、住本保吉氏は、時代の流れを読み、それに応えることを信条としていた。日本が主権を回復した1952年(昭和27年)4月には、北原三枝、岸恵子、有馬稲子、若尾文子ら、一流女優をモデルに「シネマドレス」という、当時では想像もつかない優雅なブランドを売り出し、世間をあっと言わせた。東京五輪の前年の1963年には、米国帰りのデザイナー、鈴木すずを既製服生産部門のトップとして迎え入れ、立体裁断とグレーディングによって、日本のアパレル業界に革命をもたらした。

こうした革新的姿勢は、住本氏が社長の座を高野義雄氏に譲った1979年以降、東京スタイルのみならず、大手アパレル全体から失われた。そして住本氏と同じ気風を持つユニクロが、アパレルという永遠に不滅の産業の主役として、取って代わったのである。

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