世界で起こるデモを称賛せよ
先ほども書いたように、民主主義国家における主人公は国民である。権力がその国民の人権を抑圧、弾圧することは許されない。原則的には、国民の政治に対する不満は、数年に一度の選挙の際に示される。しかし、民主主義や人権という大前提が脅かされるような場合には、国民は非日常的な行動に出ざるを得ない。それがデモという選択なのだ。
したがって、デモとは民主主義や人権を守ろうとする行為であって、逆にいうと、デモが起こるということは、国民がまともな証拠だといえる。権力が民主主義を破壊し、人権を抑圧しているのに、指をくわえて見ているような国民はまともではない。ましてやそのことに気づかないようでは、危険度はさらに増す。
だから私たちは、世界で起こるデモを称賛する必要があるのだ。私の専門は公共哲学だといったが、その中で私は「公共性主義」という立場を表明している。これは私の造語であり、新たな思想だといってもいい。
「である哲学」から「する哲学」へ
残念ながら哲学はこれまであまりにおとなしすぎた。物事の本質を考えるための学問として、部屋に閉じこもりすぎたのだ。しかし、少なくとも公共哲学のように自分が社会にいかに関わるかを考える学問は、実践をしてもいいはずだ。いや、実践なき机上の空論だとしたら、果たしてそこにどれだけの意味があるのだろうか。
私はそう考えて、「である哲学」から「する哲学」への転換を呼びかけた。それこそが公共性主義にほかならない。主義というのは、そうあるべきという主張の表れなので、公共性に主義がつくということは、公共性をもっと活性化していかねばならないという強い主張を意味することになる。
そうでないと、この個人主義の時代に、社会のことなどないがしろにされてしまうのは火を見るより明らかだ。だからあえて一歩踏み込んだわけである。お気づきの方もいるかもしれないが、「である」から「する」への転換という表現は、かつて政治学者の丸山眞男が好んで用いたものである。