筋トレで「現実が事実」になる
落語家は、「マクラ」と呼ばれる冒頭の部分で観客に探りを入れながら、共感の証明である「笑い」を引き当てようとアプローチします。つまり、客観力こそが落語家の肝であり、それを尊敬する師匠のもとで磨きをかけさせてもらえる前座期間は、実に理にかなった修行制度といえます。
だからといって私は、自民党に「失言防止マニュアル」ではなく、落語界の前座システムを導入せよといいたいのではありません。落語家も政治家も言葉を大切にする商売ならば客観力を武器にすべきであり、その能力を研ぎ澄ます方法として、「筋トレ」を主張したいのです。
客観力の醸成にあたって一番大事なことは、まず「自分はどういう人間か」を把握することだと思います。
筋トレを日々こなしていると、自分のパワーの限界を思いしらされます。「ああ、俺という男は、スクワットは120キロまでしかこなせないのだな」、「カール(二頭筋を鍛える種目)なら13キロで10回が限界なんだな」などと、常に客観的な数値をダンベルやマシンの重量が教えてくれます。
「俺はベンチプレスで100キロ上がる」と口では誰でもいえますが、本当に上がるかどうかという実績は、バーベルが客観的に示すもの。100キロ上げたくても実際には75キロしか上がらないとしたら、その数値こそが現実です。これは、談志がよく言っていた、「現実が事実」という言葉にも通じるところです。
「正義」とは常に主観側のもの
「ベンチプレスで100キロ上げる」のが主観であり理想ならば、「75キロしか上げられないこと」は、あくまでも客観であり現実です。そして、となりのベンチには100キロバーベルを楽々上げる人がいて、さらに自分の現実に向き合わされることになります。
するとどうなるかというと、「ああ、自分はまだまだだな。上には上がいるなあ」と常に気づかされる毎日を送ることで、「自分の絶対化」が回避できるのです。「俺はすごいと思ったら、まだまだだった」という気づきは、絶対化された自分を相対化させることにもつながります。
ここで、新たな提言をしてみます。失言を含めたあらゆるしくじりは、主観から起きているのではないでしょうか。
人は主観が強くなるほど、自分を絶対化させがちです。戦争を含め、たいていの失敗や失態は、「自分(たち)はまちがっていない」という誤認から起きるものと私は確信します。
一方、落語はどうでしょう。落語は基本的に、「お前からはそう見えているけれども、こちらからはそう見えるものだよ」という客観的かつ相対的な価値観で出来上がっています。
たとえば「一眼国(いちがんこく)」という落語があります。これは一つ目の国に行き、一つ目小僧をつかまえて大儲けしようとした男が逆につかまってしまい、「二つ目とはめずらしい。見世物小屋に売り飛ばそう」と立場が逆転してしまう噺(はなし)です。つまり、「世の中に絶対的なものはない」ということをわかりやすく訴えた作品です。
あの「イスラム国(ISIL)」にだって向こう側の正義はあるもの。正義とは主観的なものなのです。