精神疾患や発達障害を排除したいかのような項目

重要なのはもうひとつの「精神分析検査」だ。ことわっておくと、同検査のサイト上には「疾患」とか「障害」ということばは一切使われていない。「本検査結果レポートは、精神疾患や障害を確定するものではなく、医療行為および医師による診断に該当または代替するものではありません」という「注意」も書かれている。あくまで「リスク評価」にとどまっているということである。検査項目を見るかぎり、企業が採用する場合にリスクとして認識しており、できれば入社させたくないと感じているのは、「うつ病(双極性障害)」や「ASD」「ADHD」などのようだ。

どうやらこの「不適性検査スカウター」はなかなか好評のようで、「約4800社以上の企業、社会福祉法人、官公庁」が利用しているという。

サービスとしては「精神疾患や発達障害やパーソナリティー障害をもつハイリスクな人材を採用せずに排除したい企業様にオススメです」と言っているに等しい。だが繰りかえしになるが「疾患」「障害」を診断するとは一切書いていないので、これが不当な差別にあたると断言はできない。釈然としないことはたしかだが、企業の「経済活動の自由」の範疇にギリギリ収まるラインの商売をしているようにも見える。

「内側の人」だけが尊重される社会

家族にしろ学校にしろ会社にしろ、その組織に属する「内側の人」を差別的に扱ってはならないという人権意識の高まりは、社会全体の厚生を着実に高めていることは間違いない。

生まれもった性質ゆえに、人間関係構築や会社組織でのオペレーションに困難を抱える人びとがいる。そうした人びとを「発達障害」とか「パーソナリティー障害」とした枠組みで捕捉し、適切な社会的支援を講じる機運が高まっている。こうした営為は、どのような人でも全人格的に肯定されて生きることのできる社会を目指すためには不可欠なことである。

しかし同時に「自分たちと協働する仲間として内側に入れると手厚くもてなさなければならないのだったら、内側に入れてしわないように入り口の段階で排除しよう(私たちにはそんな人を抱える余裕はないのだから)」というインセンティブが高まってしまうのだ。それはリソースを豊富に持たない中小企業、あるいは個々人の付きあいのなかでは顕著にあらわれることになるかもしれない。有限のリソースをすべて「配慮」に回すことはできないのだ。けっして豊富とは言いがたいリソースを持つ者にとってはなおさらである。

あたかも社会階層の研究調査のような趣を呈する性的なパートナーシップも、不適性検査を採用する企業も同根の問題なのだ――「人を尊重すること、そのリソースを惜しみなく拠出すること」を時代が要請すればするほど、「リソースがかかりそうなハイリスクな人は避けよう」という反動が形成されることになる。