ギャグマンガの創作の理屈やカラクリに気付けた

――うつを抜けたことで俯瞰できるようになったということですね。

田中圭一『若ゲのいたり ゲームクリエイターの青春』(KADOKAWA)

それともうひとつ、うつを抜けたと同時に大学でギャグマンガの創作について教えるようになったんです。この経験が大きかった。今まで思いつきで創作していたと考えていたものにも、思いつく理屈やカラクリがあるんだと気づけたんです。人に教えることで、自分のもっていたノウハウが整理できました。

――教えるために整理することが自分へのセラピーにもなっていたということですね。

教えるということは、すなわち自分が学ぶことです。『うつヌケ』を描くタイミングで、取材したことをどう整理して、どんな手順で見せるのがいいか、という手法がこなれてきていました。いいタイミングだったと思います。

これで「途中で消えちゃったね」と言われずに済む

――ギャグ一本で歯を食いしばり、うつを抜け、そして大学で生徒たちに教えるという経験を経て、今の田中圭一さんのスタイルが確立されたのですね。

人の寿命って、長くて90年じゃないですか。そのうち働く期間は40年から50年くらい。「マンガ家生命」ってよく言われるけれど、40年ももてば、ほぼ一生食えたことになるわけです。僕は1984年にデビューしているから、もうマンガ家としては35年選手なんですね。その間に僕は、2度の大きな転機がありました。

最初は劇画っぽいギャグ、その次は「手塚タッチ」のパロディ、そして『うつヌケ』みたいな真面目なドキュメンタリーです。今はホッとしています。今年57歳になりますけど、とりあえず「途中で消えちゃったね、あの人」と言われずに済む。芸能人と一緒で、マンガ家もそこまでが大変なんですよね。特に「お笑いマンガ」を10年以上続けるのは本当に大変です。

ギャグで25年近く必死にやってきた後で、「真面目モード」に入ったわけですが、もし早い段階で真面目モードに逃げていたら、逃げ癖がついて、逆にもっと早く消えていた可能性もあるかもしれないです。ギャグマンガ家としてとしてのたうちまわる時期が長かったからこそ、今があると思っています。

田中 圭一(たなか・けいいち)
マンガ家
1962年生まれ。近畿大学法学部卒業。大学在学中の83年、小池一夫劇画村塾(神戸校教室)に第一期生として入学。翌84年、『ミスターカワード』(『コミック劇画村塾』掲載)でデビュー。86年開始の『ドクター秩父山』(『コミック劇画村塾』ほかで連載)がアニメ化されるなどの人気を得る。大学卒業後はおもちゃ会社に就職。パロディを主に題材とした同人誌も創作。著書に『田中圭一の「ペンと箸」』(小学館)、『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』(KADOKAWA)などがある。
(聞き手・構成=的場容子 撮影=プレジデントオンライン編集部)
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